角川日本地名大辞典 東北地方 山形県 38 町村【まちむら】 旧国名:出羽 (近世)江戸期~明治9年の村名。館廻町村とも称し,余目(あまるめ)村とも通称され,余目五ケ村組の中心であった。また興屋村とともに館廻北口村とも称した(承応4年絵図)。庄内地方,庄内平野のほぼ中央部,最上川と京田川にはさまれた平坦地に位置する。田川郡のうち。はじめ庄内藩領,天和2年酒井忠高知行,元禄9年幕府領,元治元年からは再び庄内藩領。ただし天明4年から同8年にかけて松山城築城に際しての松山藩左沢(あてらざわ)領と田川郡幕府領との替地のため,一時的に松山藩領となる。狩川通に属す。寛文年間に館廻村が当村ほか2か村に分村して成立。村高は,延享3年の手控帳(県史17)では621石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに632石余。延享3年の手控帳では,免4ツ2分,家数120(うち百姓48・山伏1・水呑45・名子26),人数600(うち男346・女254),馬15。明和6年の村明細帳(県史13)では,反別61町7反余(うち田28町3反余・畑33町4反余),家数135軒(うち御役下102・名主2・水呑31),人数671(うち男370・女301),馬3,小物成のほかに御伝馬宿入用米・六尺給・浅草御蔵前入用を納めた。用水は北楯大堰分水堰の町村堰(猿田分水)を利用。秣・草刈場は,櫛方小嶋谷地・大下川原谷地・古せき谷地など10か所の谷地を興屋村・南口村など数か村で利用。寛文2年大下川原谷地をめぐり,廿六木(とどろき)村と余目五ケ村組(当村および興屋村・南口村・常万村・朝丸村)と争い,同6年双方の入会と裁決された。また承応3年小島谷地をめぐり,町村と松山藩領の村々(廻館(まわたて)村・余目新田村など)が争い,町村肝煎藤兵衛・余目新田村肝煎助右衛門が籠舎を申し付けられたが,双方の百姓が詫言を申し出て免ぜられ,明暦元年谷地の境目がたてられた。万治2年庄内藩主御茶屋が建てられたが,延宝1年藤島村(現藤島町)に移転した。在郷町としての性格を有し,明治2年には紺屋3軒・油屋1軒,糀屋・質屋・蝋燭屋各5軒,馬喰2軒があり,諸職人として大工14・鍛冶3,塗師・葺師各2,桶師5・畳師2がいた(村明細帳/県史13)。庄内地方の心学は,嘉永~安政年間に江戸参前舎々主中村徳水が来庄するに及んで急速に普及したが,当地でも安政2年に中村徳水が興屋村宝護寺で道話を行い心学への傾倒者が急増し,同年当村の佐藤嘉次が中心となって余目社が成立している。幕末期の「荘内要覧」では,家数150軒。鎮守八幡大菩薩(八幡山神宮寺,現八幡神社)は安保氏崇敬の社で,もとは余目館内にあった。寺院は,安保太郎助形の開基という曹洞宗乗慶寺。同寺の境内には安保家のものと伝える五輪塔がある。明治2年天狗騒動が起こり,同年11月16日約2,000人の農民が八幡宮で寄り合い,諸雑税免除,年貢の半減および金納などを求めて大庄屋役宅に押し寄せた。鶴岡県を経て明治9年山形県に所属。同年興屋村ほか3か村と合併して余目村となる。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7027548