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米沢街道
【よねざわかいどう】


山形街道・最上街道ともいう。上山(かみのやま)城下と米沢城下を結ぶ街道。羽州街道と米沢藩主の参勤道である板谷街道を連絡した。上山より中山(現上山市),小岩沢・川樋・赤湯・大橋(現南陽市),津久茂・糠野目(現東置賜(ひがしおきたま)郡高畠町)を経て米沢城下に至る。奥羽諸大名の参勤経路からはずれるため,街道の往来は米沢藩役人・幕吏・旅客が主であったが,時には新庄藩や庄内藩の参勤に用いられたこともあった。近世初期には村山方面からの塩・五十集・衣類などの移入品,置賜郡内の城米などの移出品の駄送路としても重要で,現山形市の中野・船町まで陸送され,最上川を船積みされた。元禄7年西村久左衛門により最上川上流の難所黒滝ほかが開削された。これにより舟道が最上川上流(松川)の糠野目船場まで通じ,商人荷物や城米の陸上輸送が激減して宿駅の問屋は経営の維持に苦しむことになった。中でも津久茂は糠野目・大橋の両駅にはさまれた小村で,従来人馬継立の任に耐えきれず,天和3年以前には「すり切れ」て問屋業務の返上を一村あげて嘆願し,隣村の大橋がその任をあわせ引き受けていた。元禄年間頃まで一村では過重な継立てとして大橋側からたびたび訴えがあったが,村税の減額などを条件に,元禄11年,ついに大橋駅に併合され,以後米沢街道は6駅となった。米沢藩の番所は城下入口の花沢口のほか,糠野目・大橋・中山などに設けられ,他国旅人の取り締まり,自領荷物の他出などの検査は厳重を極めた。このため商人荷輸送の中心は村山郡内から長谷堂(現山形市)を経て吉野川沿いに宮内(現南陽市)に抜ける脇街道の小白府街道に移り,米沢・羽州両街道の宿駅とたびたび紛争を生じた。明治4年には県道1等に格付けされ,初代県令三島通庸のもとに明治11年には旧糠野目村地内の最上川上流(松川)に松川橋,同14年旧中田村に芦付橋,旧大橋村の吉野川に吉埜川橋がそれぞれ架橋された。また最大の難所であった赤湯~川樋間の急坂に取揚坂新道が建設されて交通の便が飛躍的に向上した。沿道には三島県令時代の名残として中山小岩沢の蛇ケ橋,吉田橋,忠川池(上山市)入口のアーチ式石組のいわゆる眼鏡橋が残され,美観を今に伝えている。現在一部は国道13号となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7028383