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会津街道
【あいづかいどう】


主として江戸期に会津地方に向かう街道を会津街道と呼んだ。①福島から大森・原宿・土湯・土湯峠・高森・猪苗代を経て若松に向かう街道。明治初年まで会津側では福島街道と呼ぶ。明治初年会津街道2等道路(二郡村誌)。②本宮(安達郡本宮町)から中山宿・楊枝(ようじ)峠(中山峠)・壺下・猪苗代・若松を結ぶ街道。会津側では二本松街道と呼んだ。明治12年越後街道の一部として県道2等に仮定。③白河から飯土用・上小屋・牧ノ内・長沼・勢至堂・勢至堂峠・御代(三代)・福良を経て若松に出る街道。会津側では白河街道・東通り白河道などとも呼び,江戸から佐渡への通路で,佐渡の産金を江戸に運んだり,幕府の役人の佐渡への往来や,会津・新発田・村上の諸侯の参勤交代の通路に利用された会津本街道,長沼付近では長沼に回らず江花から牧ノ内にでる近道もあった。豊臣秀吉が会津に来たときは,原から背中炙山を越えて若松に出た。その後滝沢峠越の道に変更。④越後新発田から赤谷・津川・野沢・片門・塔寺・坂下を経て若松に通じる街道。若松街道とも呼んだ。会津側では越後街道・津川街道・赤谷通り・新発田街道などの呼び名があった。⑤その他,米沢から檜原峠を越えて若松に通じる街道(米沢街道)。只見川・伊南川筋を通る沼田街道・鬼怒川筋を通り山王峠を越えて会津に入る会津西街道なども会津街道と呼ばれた。以上数本の街道が会津街道とも呼ばれた。明治以降は,会津三方道路の一部も会津街道と称した。明治18年開通した山形・福島県界の大峠を越え,米沢から喜多方・塩川経由で若松に通じる米沢街道と,若松から大川筋を通って田島に出て,山王峠を越える日光街道との総称である。明治15年県令三島通庸が会津三方道路を計画。地元の反対を押しきって工事を進めた。1つは檜原峠経由の旧道を換線して入田付から大峠(1,150m)にかかる嶮路を開削するもの,1つは大内峠経由の南山通りを換線し大川峡谷沿いに新道をつけるもの,1つは坂下・束松に向かう越後街道を藤峠越えに換線するものであった。前2者が会津街道の工事である。天正17年伊達政宗が猪苗代町磨上原(すりあげはら)で蘆名氏と対戦した時は,本宮から若松に至る会津街道を通って猪苗代に達したことが「伊達成実日記」から読みとれる。「松藩捜古」には慶長3年・寛保4年の中山駅(郡山市熱海町中山)の定書があり,「折紙・手形なしには人足・伝馬を出さない。村送りは百姓にとって迷惑である」と記されている。また苗代田(なわしろだ)村(本宮町岩根字本郷)に対する寛永4年の会津道掟書には,蝋・蝋そく・うるし・なまりの4品目は留物なので,密かに持ち出す者を発見したらほうびを出すと書かれている。いずれも会津藩の布達である。中山村道普請廻文によると村割符人足によって道・橋の修理がなされていた。古川古松軒の「東遊雑記」によると天明8年にこの道を通ったが,会津藩領では道のりが不正確だが,この二本松藩領は36町を1里と正しく使われていると書いてある。楊枝峠の西側,猪苗代町壺下(つぼおろし)には会津藩の口留番所があり,東側,郡山市中山には二本松藩の穀留番所があった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7028506