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羽州街道
【うしゅうかいどう】


羽前街道・秋田街道・羽州道中ともいう。奥州道中の桑折(こおり)宿北方の追分(伊達郡桑折町)で分岐する羽州街道は小坂通りとか七ケ宿街道の称も使用された。これは福島・宮城県境の小坂峠(441m)を越えて白石川筋に入り,下戸沢のほか,渡瀬・原・追見(おつけん)・関・滑津・峠田・湯ノ原(以上宮城県)の7つの宿場を経由して宮城・山形県境の金山峠(629m)にかかり,楢下(ならげ)を経て上山(かみのやま)(山形県)に至る街道。追分には明治初年に,「右陸前街道左羽前街道」と刻んだ石の道標がたてられたというが,陸前国の分置は明治元年である。七ケ宿の西方二井宿(にいじゆく)峠(568m)を通り,米沢へ出る道は古くから利用されていたが,金山峠を越える道は明暦2年から改修して,ようやく馬で越せる道にしたという。それまでは山形以北の諸侯は笹谷峠(906m)を越えて猿鼻宿を経て宮で奥州道中に出て江戸に向かった。笹谷峠は海抜高度が高く,風雪の危険もあって,金山峠改修後は出羽の大名の大方は小坂通りを利用した。しかし享保16年9月大地震があって,白石川筋の材木岩付近が崩壊し,小坂通りの交通が不安になったため,秋田の佐竹氏などは笹谷峠経由に変更した。そのため小坂通りの各宿場から連名で秋田藩に通行を願い出たため,秋田藩では小坂通り・笹谷通りを交互に利用するようになったという。文政9年頃は弘前の津軽,庄内の酒井,天童の織田,山形の秋元各氏も笹谷通りを通っている。小坂通りは出羽の諸侯の参勤交代ばかりでなく,奥ノ三山の参拝客の往来や,諸物資の輸送にも利用された。米沢藩の為登米(のぼせまい),屋代郷の貢税米の廻米も一部この羽州街道を通り江戸に送られた。明治6年には瀬上・飯坂・茂庭(福島市)と摺上川筋を通って湯ノ原にでる山形街道(山形秋田街道)ができ,明治12年には国道3等になったから羽州街道が換線されたとみられる。この街道も車を通せなかったので,中野新道の開削にかかり明治14年開通,翌年万世大路と名づけられるが,福島・山形両県では羽州街道の換線を申請している。5万分の1地形図では米沢以北の山形方向に延びる街道に羽州街道と注記されている。米沢~福島間は万世大路,現在の国道13号である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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