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息栖神社
【いきすじんじゃ】


鹿島郡神栖(かみす)町息栖にある神社。旧県社。祭神は岐(ふなど)神ほか。古くは流海・浪逆浦の中州すなわち沖州にあったためおきすの社とよばれた。社伝によれば,応神天皇の頃に創祀され,大同2年に現在地に移されたといわれる。「三代実録」仁和元年3月10日条に「授常陸国正六位上於岐都説神従五位下」と見える於岐都説神が当社であるという。元亨元年8月28日のとらいぬ丸等連署起請文案に,とらいぬ丸と大中臣忠広そして「鹿島検非違使兼息栖神主光広」の3人が連署で「おきすのやしろの神馬以下のとくふん」について和与の起請文を認めている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。当社神主光広は鹿島神宮の検非違使でもあり,当社もおそらく神宮の末社的存在であったと思われる。神文部分に「ことニハ鹿島三所太明神,別息栖五所太明神」と見え,当社の祭神は5座あった。しかし,「利根川図志」では住吉三神とされ,近世には混乱もあった。この5座は現在では岐神・天鳥船神それに住吉三神とされている。正嘉・正元年間の「新和歌集」は,おもに下野(しもつけ)の宇都宮氏関係の人々の歌を集めたものであるが,そこに「藤原時朝,かしまのおきすの社にまいりて,彼社僧中に十首歌すゝめ侍けるに」とあって,笠間時朝が当社に参っている。その時,当社社僧の理然法師が「うなはらやおきつしほあひに立浪のしつめかたきは心なりけり」と詠んでいる(群書10)。永享5年6月の鹿島神宮諸役覚写に「息栖御社ニハ 検校返田役」とあるが,息栖社の何の役を検校が課せられていたのか不明(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。永正10年9月28日息栖別当某は当社社務に書状を遣わし,月次祭神事料の由緒を述べている(同前)。この1か月後,鹿島神宮大宮司中臣則恒は「月次田之御神事料」として「三田之下このまり八天之処」を当社に寄進している。その後も当社は鹿島神宮の末社の1つとして,神宮と深い関係にあった。江戸期には社前海中にあったという男瓶・女瓶が有名となり,参詣者も多かった(利根川図誌)。明治10年県社に列格。昭和35年に,享保8年建造という社殿が炎上,昭和38年現社殿を再建。鹿島・香取と当社を東国三社と称し,関東以北では伊勢神宮参詣の帰りに裏参りといって三社巡りをする習わしがある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7035362