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稲田神社
【いなだじんじゃ】


笠間市稲田にある神社。延喜式内名神大社。旧県社。祭神は奇稲田姫之(くしいなだひめの)命。稲田姫社とも称した。社伝によれば,昔このあたりの者が稲田好井の水を汲むために井のあたりに来ると,1人の少女がおり,自分は稲田姫である,この地の神となって久しいが,早く社殿を設けてこれを祀れと語ったので,社を設け,この地の武持という者が祠職となって仕えたという。「延喜式」神名帳新治(にいはり)郡に名神大社として列する。治承3年5月日の常陸国総社造営注文案に「御経蔵一宇参間 稲田社」と見え(常陸国総社文書/県史料中世Ⅰ),総社の経蔵の造営役を負担していたと思われる。弘安田文には「稲田社十七丁小」と見える(税所文書/県史料中世Ⅰ)。これよりさき,建長の頃,笠間城を領した笠間時朝らは当社でたびたび和歌を詠み,それらが正嘉・正元年間の成立といわれる「新和歌集」に収められている(群書10)。それには「藤原時朝,稲田姫社にて十首歌講し侍しに」などとあり,たとえば「社頭立春」の題に対して右大弁光俊朝臣の「千早振このやへかきも春たちぬひのかはかみは氷とくらし」という歌が作られるなど,稲田姫にまつわる伝説が広く意識されている。「新編常陸」によれば室町期に社領の多くを失い,永禄・元亀年間兵火にかかって社殿などを焼亡したが,神官田村氏はかろうじて神輿を茅屋に避難させたという。慶長7年,伊奈忠次の家臣磯猪介が願主となって,現社地に4宇の社殿を建立。4宇とは稲田姫・素盞嗚尊・脚摩乳神・手摩乳神である。江戸期には除地4石余(県神社誌)。明治6年に郷社となり,同16年県社に列格。伝説では稲田姫が八岐大蛇に追われた際,茶の根につまずき葉で眼を痛めたので,神官はもちろん参拝者も茶を断って神前に詣でるという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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