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鹿島神宮
【かしまじんぐう】


鹿嶋市宮中にある神社。延喜式内名神大社。常陸国一宮。旧官幣大社。祭神は武甕槌(たけみかずち)命。武甕槌命は別名布都大神あるいは建布都神とも称し,下総国香取神宮(千葉県)の祭神経津主(ふつぬし)神とともに,天孫降臨に先立って葦原中国を平定した神として知られる(古事記・日本書紀・先代旧事本紀)。「風土記」では同じ神が「香島天之大神」と称され,「天にては則ち,日の香島の宮と号(なづ)け,地にては則ち,豊香島の宮と名づく」と見える。天孫降臨による葦原中国平定後,神武天皇即位の年に当地に神宮が創建されたと伝える(新編常陸)。外浪逆浦(そとなさかうら)を挾んで鎮座する香取神宮と当社は古くから軍神として名高く,大和朝廷の東国平定事業に大きな役割を果たしていた。「風土記」香島郡の条には大化5年に下総国海上国造部内の1里と常陸国那賀国造部内の5里をそれぞれ割き,合わせて別に「神郡」を置き,そこにある「天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社」の3社を合わせて「香島の天の大神」と称せしめたとある。このように「風土記」では祭神を3座とし,神名も主神を武甕槌命とはいわず天の大神としている。鹿島神郡建郡の過程では,中臣氏が深くかかわっていたらしく(風土記),これ以降も当社は中臣氏(藤原氏)の氏神となっている。大化改新時に活躍した中臣連鎌子(鎌足)がこの地の出身であったとの伝説はすでに「大鏡」に見える。大和国春日神社は,当社をはじめ,香取神宮・河内国枚岡神社・伊勢国皇太神宮の神を勧請して神護景雲2年に成立した神社であるが(春日大明神垂跡小社記,大鏡裏書/県史料古代),4社の中心は当社で「大鏡」には春日神社造立の理由を「鹿島とをしとて,大和国三笠山にふりたてまつりて」としている。これ以後当社には勅使として鹿島使が派遣され,相変わらず格別な扱いを受けたが,藤原氏が春日社に対し氏神として当社以上の待遇を与えるようになったため,中央との関係が薄れて地方の1大社としての性格を強くしていった。常陸国防人とも関係が深く,天平勝宝7年2月筑紫に遣わされた那賀郡の上丁大舎人部千文は「あられ降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に吾れは来にしを」と歌っている(「万葉集」巻20)。軍神としての性格は,武甕槌命の天孫降臨の折の役割に由来することはもちろんであるが,「風土記」に見える「天の大神」としての鹿島の神は航海神としての性格も強い。毎年7月に舟を造って津の宮に納めていたが,昔天の大神が「中臣巨(臣)狭山命」に船を造らせ,その船を自在に操ったため,巨狭山命がこれを崇めてそれ以来3隻の船を献じたのに始まるという(風土記)。この船神・航海神としての性格が軍神と結びつき,以後中世に至るまで続いた7月の船祭は,軍神・船神の性格を象徴する最も重要な行事であった。「続日本紀」宝亀8年7月乙丑条に,内大臣藤原良継の病気平癒祈願のため「其氏神鹿島社」を正三位に叙すとある。承和3年5月丁未には従二位勲一等の「建御賀豆智命」が正二位を受け,承和6年10月丁丑には従一位にまで昇格した(続日本後紀)。「延喜式」神名帳鹿島郡に「鹿島神宮〈名神大,月次,新嘗〉」と見える。鹿島郡は建郡当初から当社の神郡であったが,その支配・神税収取の方法は明らかでない。「風土記」に「神戸(かむべ)は六十五烟なり」とあり,「本は八戸なりき。難波の天皇のみ世,五十戸を加へまつり,飛鳥の浄見原の大朝に,九戸を加へまつり,合せて六十七戸なりき。庚寅の年,編戸二戸を減し,六十五戸に定めき」と見え,7世紀における急速な神社経済の成長が確認される。「続日本紀」天平宝字2年9月丁丑日条に,鹿島神奴218人を神戸となすと見え,また神護景雲元年4月庚子には,鹿島神賤男80人・女75人を良民としたとある。神奴・神賤として人身支配に重点が置かれていたものをこの頃から良民として編成し直していると考えられる。宝亀4年6月にも神賤105人を一か所に居住させ,良民と婚姻することを禁じている(「続日本紀」宝亀4年6月丙午条)。また同11年12月,鹿島神宮司は良民と知りながら霊異に仮託して,774人の農民を神賤として神戸に編入している(「続日本紀」宝亀11年12月壬子条)。「新抄格勅符抄」には「鹿島神 百五戸」とあり「常六(陸)国神賤戸五十烟 課六百八十五人 不課二千六百七十六人 延暦五年」と見える。陸奥国には蝦夷討伐の過程で鹿島神の分霊が祀られていた。「延喜式」神名帳陸奥国には鹿島御児神社など,当社の分社が8社ほど見える。貞観8年正月20日鹿島神宮司は陸奥国にある「大神之苗裔神卅八社」に対して,延暦年間以来大神の封物を割いて奉幣を行ってきたが,弘仁年間以来それが中絶していると述べている(三代実録)。また当社の社殿修造についてふれ,「鹿島大神宮惣六箇院 廿年間一加修造」とある(同前)。これより先,「日本後紀」弘仁3年6月辛未条に,住吉・香取・鹿島の3社は20年ごとに社殿すべてを改作していたが,これ以後正殿のみ20年に1度とし,他は破損にしたがい修理すべしとある。「延喜式」にも当社の正殿は神税(延喜交替式では正税)をもって20年に1度改作せよとあり,式年の社殿造営は原則的にはこれ以降中世まで伝統として続けられた。当社修造記事の早い例は,「風土記」に見える淡海大津朝天智天皇によるもので,以後「鹿島長暦」には,大宝元年に正殿・仮殿が造られ,この時から20年に1度の式年造営が定例となったという。「鹿島町史」は社蔵の古文書・古記録を引いて平安期から戦国期までの造営年次を貞観8年・天慶3年・長和4年・天永2年・承安3年・建暦元年・弘長3年・弘安5年・正応2年・正和4年・元亨3年・応永25年・永享7年・大永2年・永禄2年としている。一方,神宮寺は天平勝宝年間に修行僧満願が開いた寺で(嘉祥3年8月5日太政官符/類聚三代格),満願は大般若経600巻を書写し仏像を画いて8年間止住したが,その後寺は荒廃したので,神宮司は5人の僧を補されんことを朝廷に願い出て,嘉承3年に許されている。天安3年2月16日の太政官符によれば,神宮寺は満願とともに神宮の宮司中臣鹿島連大宗および大領中臣連千徳が興したとあり,承和4年に定額寺に預ったという(類聚三代格)。寺ははじめ本社の巽の方角五里の鹿嶋市鉢形の神宮寺沢池付近にあったが,たびたび移転して江戸期には新町にあったという(鹿島町史)。近世には真言宗仁和寺末で山号を鹿島山と称し,本尊は釈迦如来であった(同前)。慶長9年には当社供僧衆の筆頭として30石を与えられ,また「神宮寺常陸帯料」として100石が与えられていた(同前)。常陸帯は当社の重要な行事の1つであった常陸帯神事に用いられる祭具で,これが神宮寺に保管されていたのであろう。文久3年に天狗党のために堂宇・仏像が壊され,元治元年にも堂舎破壊に遭い,以後再興されないまま今日に及んでいる。平安後期における当社の沿革は,比較的記録が少なく未詳な点が多い。朝廷からの勅使である鹿島使は,西の宇佐使と同じく朝廷の重要な神使であったが,これ自体もやがて朝廷から離れ,常陸国衙在庁の手に移っていったと思われる。乾元2年の正月青馬之事并七月御祭大使役之事案に,7月大祭には往古勅使が下向してくる定めであったが,「国煩民歎」のため,常陸大掾が勅使に準じてこの神使を勤めるようになったとある(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。「風土記」以来の起源を誇る7月大祭の大使は,このように平安末期頃には大掾が国衙在庁の代表としてこれを勤め,やがて鎌倉期には大掾氏の7流が他氏を混じえず交代でこれを独占勤役し,少なくとも応永年間頃まではこの体制が続く(鹿島大使役記/安得虎子)。平安末期における当社と国衙在庁との深い関係が,当社を常陸国一宮としたのは当然であった(建暦3年4月15日付官宣旨,吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。こうした当社と国司・国衙在庁との結びつきは,この時期における鹿島社領の形成にも大きな影響を与えている。鎌倉期において頻繁に登場するようになる社領の大部分はこの時期に大禰宜則親が集積・獲得したものであった。その主なものは,行方(なめがた)郡の本納と加納十二箇郷,南郡の橘郷・大枝郷,奥郡の大窪郷などであり,これらの社領は大禰宜領として鎌倉期の史料にたびたび登場する。また鹿島社領の全貌は,康永2年正月9日書写の鹿島神宮領田数注文案によれば1,200町近くにのぼる(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。鹿島郡は南条・北条あわせて638町9反大,行方郡は335町3反300歩。このほか常陸国内の東郡・那珂西郡・佐都東郡・吉田郡・南郡・筑波郡にそれぞれ社領を有している。鎌倉末期~南北朝期の動乱期にかなりの社領が退転したと思われるが,その実態は未詳。しかし,藤原氏の支配がほぼ完全に消え去ったと思われる南北朝期以降,当社は逆に比較的安定した時期を迎えるが,大宮司を頂点とした神官団の再編成が進んだ結果とみられる。これ以前,平安末期から鎌倉前期にかけて,当社の上級神官家である中臣氏と大中臣氏は大宮司職を交代で勤めるようになる。平安末期に中臣則親が大禰宜となって社領を集積していった結果,以後大禰宜中臣氏が当社の中心的神官となってゆく。一方で源頼朝の口入によって鹿島社惣大行事となった鹿島氏は常陸大掾氏の一族でもあり(「吾妻鏡」養和元年3月12日条),当社の神官組織は急激に変化していく。安貞2年5月19日の関東下知状によれば,惣大行事は当社神官であると同時に鹿島郡地頭でもあり(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ),その補任権は武家が有していた。当社神官の補任権は基本的には藤原氏長者家が持っており,鹿島氏の登場はその意味でも神官秩序を乱すもととなったといえる。文永3年の諸神官補任之記によれば,当社神官は大宮司を筆頭に,以下大禰宜,物忌および物忌の父,惣大行事,検非違使・惣追捕使・押領使,宮介・権禰宜・和田権祝・益田祝・惣申権祝・田所権祝,案主3人その他,神夫・郷長・判官等々,これに神宮寺の僧衆を加えれば50人は軽く超える数である。こうした大神官団を実質的に支えていたのが常陸国内の莫大な社領であり,またたびたびの神官再編の動き自体,複雑な社領支配の変化に対応するためのものであったといえる。いずれにせよ,南北朝期を経て室町期も中頃には,嘉吉3年正月吉日の社番神官次第に見られるように(同前),神事・儀式における神官の体制が整い,大宮司を中心にまとまりのある構成となっていった。鎌倉期から室町期にかけて,幕府・将軍家・諸大名の崇敬は目覚ましいものがあり,社領寄進・神宝の奉納・参詣奉幣・祭事がしきりに行われた。このように勢威を振るった当社であったが,天正18年豊臣秀吉が関東を制圧し佐竹氏が鹿島郡を領有すると,天正18年10月21日東義久は当社の社領を安堵しているが,鹿島郡以外の社領は没収されたようである(同前)。文禄4年8月17日社家供分高注文では,当社領は405石とされている(同前)。その後慶長7年10月26日の伊奈忠次等連署神領目録案によれば,徳川家康は新たに1,500石余を寄進し,以後当社の社領は2,000石と定められた(同前)。この2,000石は主として当社周辺の数村分に相当し,ここに鹿島社の広大な中世社領支配は終わりを告げる。家康は慶長9年に本殿造営を命じて完成させた。この社殿が現在の奥宮社殿(国重文)である。またその後元和5年にはより大規模な諸社殿の造営が幕府の手によって行われている。現本殿・拝殿・幣殿・石の間・仮殿などが当時のもので,国重文に指定されている。近世水戸藩による崇敬もまた格別で,楼門(国重文)は寛永19年に初代藩主徳川頼房の造営による。頼房をはじめ代々藩主の当社参詣も相次いでいる(鹿島町史)。明治期には官幣大社に列格した。当社の祭礼は多数あるが,現在行われているもののうちでは祭頭祭が有名。南北六十六郷とよばれる氏子の村々が左方と右方に分かれ,各々くじによって祭頭を勤める村が選ばれる。その村では新発意(しぼち)とよばれる少年を先頭に,100人余の若者が祭頭ばやしではやしたてながら社前にかけ込むという勇壮なものである。また12年に1度の御船祭は,古く戦国期に中絶した7月大祭を明治3年に復活させたもので,最近では昭和53年に行われた。宝物は多数あり,古くから神殿内に秘蔵され,神体とも仰がれていた大型の直刀(国宝),梅竹蒔絵の和鞍(国重文)その他500余点がある。また広大な境内には巨木が林立し,鹿島神宮樹叢として県天然記念物に指定されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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