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鹿島神社
【かしまじんじゃ】


日立市大久保町2丁目にある神社。旧郷社。祭神は武甕槌(たけみかずち)命。はじめは河原子村の鹿島森にあって塩浜神社と称していた。社伝によれば,坂上田村麻呂が戦勝を祈願し,大願成就したために大同元年に社殿を建立したと伝え,また安元元年に常陸大掾平忠幹の九男宗幹が当社を崇敬,代々の祈願所としたという。源頼朝は治承4年平家討滅を祈願し,その報賽に養和元年3月,塩浜・大窪の地20石余を当社に寄進。その後太田城主佐竹氏も当社を城北の鎮守として崇敬し,旧暦9月29日の流鏑馬(やぶさめ)神事には,必ず奉行を立てたと伝える。正安3年3月3日の関東下知状には,鹿島神宮権禰宜中臣実則が「常陸国大窪郷内塩片倉村田五町・在家五宇」の大夫僧正坊忠源による押領を幕府に訴え,「右郷者,右大将家,元暦元年於当社為不断大般若転読,御寄進之最初」とあり,その時に「曩祖禰宜大夫則親」がその知行を拝領したとしている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。事実頼朝は治承5年3月に世谷・大窪・塩浜を神宮に寄進(塙不二丸文書/県史料中世Ⅰ),その後元暦元年8月13日に「奥郡輩」の押妨をとどめて社領を安堵し,さらに同年12月25日には則親の孫にあたる親盛を鎌倉に呼びよせ(吾妻鏡),同日の,「奥郡内大窪并塩浜郷」をその沙汰とせしめている(塙不二丸文書/県史料中世Ⅰ)。この時よりおそらく鹿島社と大窪・塩浜との関係が深まったと考えられ,親盛の後裔は代々大窪・塩浜の地頭職として両郷に入部したと考えられる。当社はおそらく,社伝にもあるごとく,鹿島神領となった大窪・塩浜郷の鹿島大禰宜家が鹿島社を勧請したのに始まると考えられる。水戸藩によって6石3斗余が除地とされたという(県神社誌)。社蔵棟札には慶長19年以降のものがある。10月29日(以前は旧暦9月29日)の秋季祭には,天正12年9月29日に佐竹氏が始めたと伝える流鏑馬祭が行われ,同時に行われる散々羅(ささら)芸能は県無形民俗文化財。ほかに駒繋のイチョウ(市天然記念物)がある。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7036260