100辞書・辞典一括検索

JLogos

18

鴨大神御子神主玉神社
【かもおおかみみこかみぬしたまじんじゃ】


西茨城郡岩瀬町加茂部にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は主玉(ぬしたま)神・大田田根子(おおたたねこ)命・別雷(わけいかずち)神。永和2年8月の紀年を有する中郡庄賀茂大明神縁起によれば,祭神は別雷神で,神武天皇8年に神武天皇の御願所として現在地に勧請されたという(続群3下)。弘仁3年,弘法大師回国の時に当神前に参った時は三神が示現したとも記されている。古代加茂氏の祖神として祀られたと考えられ,鎮座地の加茂部はその名残と思われる。「文徳実録」嘉祥3年6月己酉条に「鴨大神御子神主玉神」を官社に列すと見え,「三代実録」貞観3年9月23日条には「常陸国従五位下主玉神」に従五位上を授くとある。「延喜式」神名帳新治(にいはり)郡に当社名が見える。社伝によれば寛平9年に臨時祭がはじめて行われ,その後たびたび勅使参向があった。康平6年に源頼義が社殿を修造し,神宝奉納のほか加茂村を寄進(県神社誌)。また元久元年には白河・鳥羽・後白河三天皇の起請の旨にまかせて社領の大嘗会役夫工米及雑役が免ぜられたという(同前)。貞治5年11月21日の幕府御教書によれば(彰考館採集古文書常陸賀茂社文書/大日料6-27),幕府は賀茂社司供米等訴状を受けて中郡庄役夫工米に関し大神宮造営使を召喚しており,おそらくこの時当社領の役夫工米は免除されたのであろう。貞永元年11月21日の某袖判下文によれば,当社神主職として源守吉が補任されている(彰考館採集古文書常陸賀茂社文書/鎌遺4405)。この地は平安末期頃には蓮華王院領中郡荘となっており,袖判下文の発給者もおそらく同荘に関係ある人物であろう。同荘は南北朝期初頭頃まで南朝方の常陸国内における拠点であったが,やがて室町幕府方に収公されたらしく,幕府は暦応4年10月20日の御教書で中郡荘鴨部郷7分の1を兵粮料所として佐竹弥次郎に与えている(楓軒文書纂/大日料6‐6)。しかしその後もこの地域には南朝勢力が力をたくわえていたと思われ,当社所蔵の大般若経(現在336巻,県文化財)は正平9年頃に奉納され,奥書には後醍醐天皇の冥福を祈る由が記されている。社伝によれば,応永21年に宍戸城主宍戸義利が社殿を修理,永享12年3月4日には結城合戦戦勝奉賽として足利安王丸が神田を寄進した。永禄12年8月には佐竹義重が社殿を修築したという(県神社誌)。慶長7年に徳川家康は社領3石の朱印を与えた。江戸期には笠間城主の井上氏・牧野氏の崇敬篤く,近郷42村の惣社と仰がれたといわれる(同前)。明治6年に村社,同12年に郷社に列格。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7036600