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国分寺
【こくぶんじ】


石岡市府中5丁目にある寺。真言宗智山派。浄瑠璃山東方院と号す。本尊は薬師如来。聖武天皇は天平13年に諸国国分寺の建立を発願。常陸国分僧寺・尼寺もその後まもなく創建されたと思われる。以後,常陸国における寺院の中心として中世までは強い影響力を有していた。嘉吉2年正月15日の常陸国留守所下文に,正月8日の吉祥悔過布施として5,924束,三宝布施として300束,講読師・請僧布施として5,624束の料稲が施入されていた由,天平神護2年と延暦24年の太政官符に記されていたとある(税所文書/県史料中世Ⅱ)。両太政官符は現在伝わらないが,天平神護2年には常陸国に国分寺が完備,機能していた。「延喜式」主税条に,常陸国の国分寺料6万束とあり,国分寺料としては全国第1位の量である。「本朝法華験記」に,常陸国書生飛鳥貞成は,仁和4年に国分寺において大供養を行ったという。弘安田文の南郡の項には「国分寺十三丁」と見える(税所文書/県史料中世Ⅰ)。鎌倉期以降,常陸国は国衙・惣社・国分寺を中心として国衙在庁勢力が結集していたと思われ,たとえば元応元年10月日の常陸国在庁・供僧等訴状断簡に「庁供僧」「惣社供僧并最勝講衆」「同社最勝講衆」と見える10数人の僧名は,惣社はもちろん国分寺とも深いつながりを有していた者であろう(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ)。元亀元年に仁王門の造営があり,天正2年には完成した(石岡市史)。戦国期には国衙の在庁勢力が次々に滅亡したが,天正13年,大掾氏と佐竹氏による石岡城をめぐる戦乱により,当寺の伽藍の多くが焼失したらしい(同前)。慶長13年朱印30石を寄進されたが,江戸期にはほとんど寺も解体し,近隣の真言宗寺院千手院の末寺となっている。「新編常陸」には,千手院の末寺として「国分寺〈浄瑠璃山東方院〉」とあり,「国分寺ハ朱印地三十石ヲ領ス」と見える。また当寺鐘銘には「医王尊聖武帝憑叡信,行基大士開基」と記され,この鐘は「古奈志浜」から出現した竜宮の鐘であるとも記される。千手院は菩提山来高寺と号する真言宗智山派の寺で,弘仁9年に行基の弟子行円が開創したと伝え(石岡市史),天正元年に朝賀が中興して現在に及ぶ。江戸期には朱印地10石を有した(新編常陸)。大正8年5月,千手院は国分寺を合併したが,国分寺の名が途絶えるのを惜しんで山号・寺号は国分寺を継承。現在国分寺の遺跡が境内に残り,国史跡となっている。一方国分尼寺跡は,当寺の西北約600mの地に残る。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7037056