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薩都神社
【さとじんじゃ】


常陸太田市里野宮町にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は立速日男(たちはやひお)命。「風土記」久慈郡条にこの神の鎮座伝承が見える。すなわち賀毘礼(かびれ)の高峰に天つ神がおり,名を立速日男命と称した。この神は「本(もと),天より降りて,則ち松沢の松の樹の八俣の上に坐(いま)しき」とあり,松沢とは現在の瑞竜町小野といわれる(常陸太田市史)。この神の祟りは「甚だ厳しく」とあり,近隣に住む者がこれに苦しみ,やがて朝廷に奏上したところ,朝廷は片岡大連を遣わして「高山の浄き境に鎮まりますべし」と神に祈ったため,神は賀毘礼の峰に登ったという。「風土記」の時代に賀毘礼峰とよばれた山は,一説には神峯山(日立市),一説には御岩山(入四間山,日立市)ともいわれるが,「風土記」の記述から御岩山説が有力。社伝によれば,延暦7年に賀毘礼の峰に社を建立し,石器を用いて神酒を造り献じて神事を行ったが,参道険しく参拝に困難なので,大同元年に小中島(現常陸太田市里野宮町)に社殿を新造したことに始まるという。「続日本後紀」承和13年9月丙午条に「奉授常陸国勲十等薩都神……並従五位下」と見え,「三代実録」貞観8年5月27日条では「従五位上勲七等薩都神」が正五位上に,さらに貞観16年12月29日条は従四位下に昇階している。「延喜式」神名帳久慈郡に当社が見える。治承3年5月日の常陸国総社造営注文案に「舞殿一宇参間 佐都社」と見え(常陸国惣社文書/県史料中世Ⅰ),総社の社殿造営役を負担している。文保3年の常陸国惣社造営役所地頭等請文目録には「一通 佐都社地頭備中守請文」とあり(同前),先の総社による国内神社統制は少なくともこの時期までは行われていた。また当社は「地頭備中守」某の支配下におかれており,この頃までには社領などを有する中世的な神社に変貌し,一種の領地として武士などの領有の対象となっていた。社伝によれば,正平年間に佐竹義信が社殿を修理し,大永2年に佐竹義舜が当社を小中島から現在地に移したという(県神社誌)。一説にはこの地方の豪族小野崎延通によるともいう(常陸太田市史)。この頃から毎年4月10日には旧地賀毘礼山(御岩山)に神輿渡御が行われるようになった(同前)。慶安元年に徳川家光は社領50石,除地13石余と定めた(県神社誌)。明治6年郷社となる。近郷33か村の鎮守。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7037315