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静神社
【しずじんじゃ】


那珂郡瓜連(うりづら)町静にある神社。延喜式内名神大社。常陸国二宮。旧県社。祭神は建葉槌(たけはずち)命で,手力雄(たぢからお)命・高皇産霊(たかみむすび)尊・思兼(おもいかね)命を配祀。「新編常陸」には社伝として大同元年の創祀とある。当時の社伝には主祭神を手力雄とし,高皇産霊・思兼を配祀していたという(新編常陸)。社名の静は,織機に関係のある倭文(しずり)に通じ,古代倭文集団の神といわれる建葉槌命がもともと当社の神であったと考えられ,手力雄がいつの頃からかそれにとって代わったといわれる(同前)。「風土記」久慈郡条に「郡の西十里に静織(しどり)の里あり」と見え,古く綾(しず)を織る機を人々がまだ知らなかった頃はじめてこの地で織られたという地名説話がある。おそらく古代機織を業とする人々によって祀られた神であろう。「三代実録」仁和元年5月22日条に「従五位下静神」に従五位上を授くとある。「延喜式」神名帳久慈郡には静神社として名神大社に列している。治承3年5月日の常陸国総社造営注文に「職掌人屋一宇参間 静神社」と見え(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ),総社社殿の造営役を負担している。当社と那珂川を隔てた常北町にある小松寺所蔵文書には年未詳宥信記宥尊感得静明神正体覚がある(県史料中世Ⅱ)。同寺所蔵年未詳願行流血脈によれば(同前),宥尊は小松寺住持で佐竹義光の舎弟にあたり,若い頃に当社で百日の参籠をしたという。さきの正体覚はその時の宥尊の行状を数代後の宥信が記し留めたもので,それによれば宥尊がまだ小松寺の客僧であった時,当社の奥宮と大宮との間で神を感得し御正体を授かったといい,その後やはり小松寺の僧宥灯・宥秀などが伝持し,永正9年宥秀死没の時に宥信が拝見したという。社伝によれば,豊臣氏・徳川氏から朱印社領150石が与えられた。徳川光圀は寛文年間に本殿・拝殿・神楽殿などを造営したが,その時境内の老ヒノキの根元から「静神宮印」と刻された銅印を発見し,新たに筥に納めて当社をますます崇敬したという。この銅印は現存するが,平安期のもの。光圀が寄進した印笥一合とともに国重文。光圀は本殿などの造営と並んで神宮寺などの分離を行ったが,それ以前の社僧は神宮寺・静安寺・弘願寺の3寺であった(県神社誌)。天保12年に火災があり,古記録一切を焼失したという(同前)。明治6年県社に列格。社蔵の紙本著色三十六歌仙(県文化財)は3代水戸藩主徳川綱条が宝永2年に光圀に献上したもの。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7037432