志筑藩
【しづくはん】

(近代)明治初期の藩名。慶応4(明治元)年7月常陸新治(にいはり)郡志筑周辺に8,000石余の知行地をもっていた外様の交代寄合本堂親久が,明治新政府に対する功績によって,知行地のうち下稲吉村を土浦藩に引き渡し,新たに市川村・北根本村・中津川村・高浜村・中佐谷村などを加え計1万110石余に高直しすることが認められて成立。藩庁は中志筑村に従来から設けられていた陣屋とした。同年8月の「兵隊役割取調帳」によれば,藩の軍事組織は1分隊15名ずつ4分隊(60名)とされ,洋式の軍隊編成がなされていた。同年8~9月には戊辰戦争の情報探索のため隊長横手惣五郎・小林太郎に命じて藩兵数名を陸奥棚倉・郡山・会津若松などへ派遣し,10月にも水戸藩浪士の水戸城攻撃に藩兵40名余を派遣して救援した。藩制機構は政務所・軍事所・会計所のもとに計26の職掌に分かれていた。明治3年元本堂氏執政であった横手立誠(義崇)は新政府から樺太開拓の仮許可を得て藩士数名とともに現地踏査を行った。のち正式許可を得て藩論がまとまり大参事横手信義が中心となって開拓に着手。しかし不運による失策が重なり年内に一時計画を断念せざるを得なくなり,また廃藩によって計画の再現はみなかった(千代田村史)。明治4年の藩領は中志筑村ほか24か村。同年の廃藩置県後志筑県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7037452 |