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総社神社
【そうしゃじんじゃ】


石岡市総社2丁目にある神社。旧県社。祭神は伊邪那岐(いざなぎ)命・邇々芸(ににぎ)命・須佐之男(すさのお)命・大国主(おおくにぬし)命・大宮比売(おおみやひめ)命・布留大神(ふるのおおかみ)。社伝によれば,天平年間に国府の南,日本武尊の遺跡地という神石の側に創建され,天神地祇6神を祀ったという。諸国の総社は平安期に国司が祭事を行うために国府近くに建てられたと考えられ,当社も同様と思われる。現在常陸国総社宮文書として当社に所蔵されている文書は治承3年5月の常陸国総社造営注文案以下50点近くある(「県史料中世Ⅰ」に所収)。すべて中世における当社の実態を知る上で重要であるばかりでなく,国衙に関する史料も多数みられ,鎌倉・室町期における地方行政関係史料として貴重。さきの治承3年の造営注文案では,総社の社殿造営の諸役が国内の筑波社・吉田社など諸社に課されている。発給者は「散位百済 目代散位中臣朝臣」の2人で,総社造営は国司・国衙在庁の主導によるものであった。鎌倉期以降当社の神主職は清原氏で,特に永仁期以降清原師幸関係の文書が多い。永仁5年4月1日の常陸国留守所下文は,幕府による永仁の徳政令の実施されたことを示す史料で,神主師幸による惣社敷地内田畠の進退権を認めたもの。中に「就中苻中田畠等者,国衙一円進止之条,関東度々御成敗・留守所裁許」は異議のないこととあり,当社社領・神官の進退権などは国衙にあったことを示している。当然清原氏も国衙の役人と考えられ,当社の国衙行政における役割も推測されよう。康永3年正月日の清原師氏目安によれば,前欠のために詳細不明な点もあるが,1つには鹿島神宮の祭礼が往古より「奥七郡地頭・名主等之役」として勤められてきたが,それを知行している佐竹刑部大輔はその役を近年欠如せしめており,清原師氏は「其奉行」であるからこれらの「神事・国役」を対捍することのないようにして欲しいと訴えている(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ)。総社神社清原氏は,常陸国一宮である鹿島神宮の神事役を催促して祭礼をとりまとめる奉行の役割を果たしており,総社が中世の国衙機構の中にあって国内の重要な神事を行政官として執行・主導する立場にあったことがわかる。元応元年10月日の常陸国在庁・供僧等訴状断簡に,国衙在庁の一員として清原氏が数人見え,掾官の中に清原師幸の名もある(同前)。その他「惣社供僧并最勝講衆」11名がいる。中世には神事のみならず,仏事の面でも国衙に大きく関与していた。国衙の神・仏事担当機関としての当社は,少なくとも戦国期までわずかながらもその役割を担っていたと考えられる。社領は府中内に属し,進退権は国衙に属していた。しかし康永2年正月9日書写の鹿島神宮領田数注文案には「惣社 七十六丁六反大」として,一見鹿島神宮領のように書かれている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。この注文案は鹿島社領の覚え書にあたるものと考えられ,おそらく書写の際に総社領がここに混入したのであろう。こののちの社領の変遷は未詳であるが,慶長5年12月2日の常陸国総社社領田木野谷村田畠目録には「府中惣社」領として5石,慶長9年11月5日付新治郡府中平総社社領目録には30石とある。寛永4年9月15日の皆川広照書状によれば,江戸幕府は社領を25石に定めている(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅱ)。「新編常陸」によれば,当時「府中古城ノ後」にあったがもとは「古国分尼寺アリシ尼寺カ原ト云フアタリ」にあったといい,大掾詮国が府中城を築いた時,城の鎮守として移したものという。また同書によれば,江戸期には本殿のほかに幣殿・拝殿・神宮寺があり,末社として高房明神・稲荷明神があった。明治33年に県社に列格。現在毎年9月14~16日に行われる例祭は,石岡市内の各町から出される山車と大獅子が市内を練り歩く勇壮なもので,特に重さ30kgといわれる大獅子頭は有名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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