100辞書・辞典一括検索

JLogos

10

高田神社
【たかだじんじゃ】


稲敷郡江戸崎町高田にある神社。旧郷社。祭神は伊邪奈岐命・伊邪奈美命ほか。社伝によれば,承平年間朱雀天皇が平将門の乱の鎮定を願って,紀伊の熊野神を勧請したのに始まるという。その時熊野から13人の僧侶・修験が奉仕して,舟でこの地に上陸したともいわれる。同じく社伝は,当社は寛治年間に勅願所となり,のち源頼朝が奥州平定後東条荘500町を寄進したとする。延元3年,北畠親房が神宮寺城に依拠した時,神主千田内蔵助義信らが味方したため,城陥落の時に社領もことごとく没収されたと伝える。「鹿島大使役記」の元亨2年,応永11年の条に「東条高田」と見えるが(安得虎子),東条荘は東条氏の本拠地で高田にもその一族が分布していた。当社もおそらく東条氏とは縁が深く,南朝方に味方したという伝承もそれによるのであろう。現在も境内には中世城館の跡がほぼ完全な形で残り,室町期には神官が武士化していたことを偲ばせる。近世には熊野権現として信仰され,「新編常陸」にも「コゝニ熊野祠アリ,高田権現ト称ス,旧社ナリ」とあり,また「高田権現 高田ニアリ,承平中ノ創立ナリトカヤ,慶長七年三百石ノ神領ヲ寄附セラル」ともある。中世にすでにこの地域の熊野信仰の中心であった可能性がある。「実報院諸国旦那帳」に「南江戸崎」と見え,慶長4年5月9日の「廊之坊諸国旦那帳」にも「南之江戸崎」と見えるのは,おそらく当社であろう(熊野那智大社文書)。社伝によれば,足利義詮は田地10町3反を寄進して修理料としたといい,慶長5年に徳川家康が下野(しもつけ)国小山に至った時,当社神主青野宗弘らが参陣したといわれる(県神社誌)。慶長7年11月25日の徳川家康朱印状写(逢善寺文書/県史料中世Ⅰ)および寛永12年11月9日の徳川家光朱印状写(高田神社文書/県史料中世Ⅰ)によれば,高田権現領は高田郷内に257石5斗と定められていた。「新編常陸」に社領300石とあるのは,のちに加増されたためか未詳。明治4年に郷社に列した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038087