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健田須賀神社
【たけだすがじんじゃ】


結城市結城にある神社。旧県社。健田神社と須賀神社が明治3年に合併して現社号となった。健田神社は延喜式内社。祭神は健田大神(たけだのおおかみ)(武渟川別(たけぬなかわわけ)命)。創祀は未詳であるが,社伝によれば,武渟川別命(竹田臣祖神)は崇神天皇の時に東国平定に活躍したといわれ,結城国造となった竹田臣はその祖神を奉斎し健田社を創建したと伝える。「延喜式」神名帳下総国結城郡には,健田神社と高椅神社(高橋神社,栃木県小山市)の2座が記されている。健田神社の旧社地は結城市結城の健田の現在水田となっている地であった。宝暦13年に結城市結城の小塙の乗国寺境内に移され,明治3年,神仏分離によって須賀神社に合祀。須賀神社は中世には牛頭天王社,あるいは祇園社とよばれ,結城氏が領内の神社を結城七社として統制した時の筆頭とされている(結城御代記)。結城七社とは,結城直朝が康永2年4月3日に建立したものといい,当社須賀神社の旧称牛頭天王をはじめ,住吉大明神・大桑大明神・高橋大明神・八幡宮・大神宮・鷲宮大明神とされ,中世結城領内の最も主要な神社であった。当社所蔵文書は合併以前の須賀神社のもので,結城七社関係のものをはじめ牛頭天王(須賀神社)関係の文書が多数残る。たとえば応安6年10月13日の結城基光書下状には「結城郡宮々一二命婦并宮人等」が人足役公事の免除を願い出ているとあるが(健田須賀神社文書/結城市史),当時郡内の神社神官らが,おそらく結城七社の中心的神官であった一命婦らを頂点として統轄されていたと推測され,この一命婦が特に当時の牛頭天王社にいた可能性が強い。七社関係の文書が社蔵されているのはそのためで,当社は結城領内第一の有力社であったと思われる。社伝によれば,結城朝光が尾張国津島社より勧請したものといわれる。「結城市史」によれば,本社は小山氏が小山城(祇園城,小山市)に勧請した祇園社で,結城氏はその祇園社を勧請したのであろうとする。天正2年と推定される結城晴朝書下状に「きおんの御やしろくわん進,宿中その外在郷まても,入念を,これをいたすへく候」とあり(健田須賀神社文書/結城市史),当社造営の勧進が領内広く行われている。結城秀康の子松平直基が山形城などに転封となったのちも,七社への崇敬は変わらなかったという(結城御代記/結城市史)。明治元年に天王社から須賀神社と改称。同3年に健田神社を合わせて現社号となった。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038159