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楯縫神社
【たてぬいじんじゃ】


稲敷郡美浦(みほ)村木原にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は普都大神(ふつのおおかみ)。ほかに彦狭知命ほかを配祀。中世には木原社と称した。社伝によれば,古く普都神は国土平定後,この地にしばらく留ったが,高天原に帰る時に身に着けていた武具(器仗・盾など)を脱いで天上に昇ったという「風土記」の説話が掲げられ,大神が盾を脱いだので盾脱と称したがのちに楯縫となったという。創建は神武天皇18年で,推古天皇16年と大同2年に再建と伝える。「新編常陸」によれば,祭神は彦狭知命とされ,この神は神代の祭器を作る神でもっぱら盾を作ったので楯縫神と称したという。また同書には,古老の伝として,昔このあたりが茫々たる広原であった時,村民の前に1人の翁が現れて家屋の作り方と尺度を教えたという。「延喜式」神名帳信太郡に楯縫神社と見える。中世には信太郡の一宮と称したと伝え(新編常陸),郡の東33村の鎮守であった。同じく二宮は竹来村の阿弥神社で,これは郡の西40余郷の鎮守であったという。郡の一宮・二宮の呼称がいつごろからいわれたものか未詳であるが,南北朝期の永和元年11月日の信太荘上下条寺社供僧等申状案は,信太荘上条・下条の寺社供僧などが地頭に対して僧徒の保護を訴え,「木原・竹来両社者,庄内等一之惣廟也」として,これらの諸社寺の一層の崇敬を促したもの(円密院文書/県史料中世Ⅱ)。信太庄内の社寺供僧によって,宗教活動の中心に据えられ,こうした荘内での地位が確立したのは鎌倉期と思われる。社伝によれば,文明8年に再建,天正17年に木原城主近藤利勝が社殿を造営したという。神官社家15戸で,社僧は6寺,巫として伊藤家以下4家が奉仕したという(県神社誌)。その後嘉永7年に本殿・幣殿が再建され,明治6年に県社となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038206