100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

筑波山神社
【つくばさんじんじゃ】


つくば市筑波にある神社。延喜式内名神大社。旧県社。祭神は筑波男大神(つくばおのおおかみ)・筑波女大神。江戸期までは筑波権現と称した。八溝山地南端にある関東の名山筑波山二峰を神体とし,西の男体山頂に筑波男大神,東の女体山頂に筑波女大神を祀り,山の中腹に拝殿を設けている。社伝によれば,神代に伊弉諾・伊弉冊2神が大八洲国をつくり出した時,はじめにつくったオノコロ島が筑波山で,その伝統が現在も行われている御座替祭であるという。また「筑波山私記」には伊勢大神もはじめ筑波山に降臨してのち伊勢に遷ったとあるなど,古来伝説の多い神体山である。「風土記」に,「筑波岳は,高く雲に秀で」とあり,「最頂(いただき)は西の峯崢(さか)しく嶸(たか)く,雄の神と謂ひて登臨(のぼ)らしめず」と見え,西の峯は神の峯として登山が禁じられていたと思われる。一方,東の峯は険しいけれども「其の側に泉流れて,冬も夏も絶えず」とあり,女神の趣きをあらわしている。この山には「坂より東の諸国の男女」が集い,春秋の歌垣が行われたという。「風土記」には筑波の神が祖神をもてなしたので人々が筑波山に往き集って栄えたという伝説が記されている。またこの時,西方の富士山の神は祖神を冷たくあしらったという話を対照させている。祖神は筑波神の歓待を賞して「愛しきかも我が胤 巍きかも神宮」と歌い筑波神をほめた。古来当山に寄せる歌は多く,「風土記」をはじめ「万葉集」以来,中央・地方を問わず多くの歌集によって歌題とされている。「日本紀略」弘仁14年正月丁丑条に従五位下筑波神を「霊験頻著」なるが故に官社となすと見える。「続日本後紀」承和9年10月壬戌条に「无位筑波女大神」に従五位下を授くと見え,さきの筑波神は男神を指す。その後は両神同時に昇階し,「文徳実録」天安2年5月壬戌条に「筑波山神二柱授四位」とあり,また「三代実録」貞観12年8月28日条には従四位上筑波男神を正四位下に,従四位下筑波女神を従四位上にそれぞれ授階している。さらに貞観13年2月26日には男神を従三位に,同16年11月26日には女神を従四位上(正四位下か)に昇階せしめている。「延喜式」神名帳筑波郡では,筑波山神社2座のうち1座を名神大社,1座を小社としている。その後,治承3年5月日の常陸国総社造営注文案によれば,「忌殿一宇五間」の造営役を筑波社が課せられている(常陸国総社宮文書/県史料中世Ⅰ)。東大寺の学僧を勤めのちに法相宗を布教したといわれる徳一(得一)大師は天長年間頃筑波山寺を開いたといわれる(元亨釈書・本朝高僧伝)。徳一は日本の天台宗の祖最澄と法論をたたかわせたといい,これは「三一論争」として知られるが,筑波山寺は関東における南都系仏教の中心地であった。同寺は中世に筑波山信仰を母体とした修験の寺となり,知足院中褝寺と名乗ったが,以降近世に至るまで,当社は神仏習合の神社・寺院として大いに栄えた。中世における実態を明らかにする史料は少ないが,室町期中頃の作といわれる蔵王権現立像が筑波町内の蔵王神社に残され,当時の修験寺院としての面影を伝える。社領の全貌・内容などについても未詳であるが,弘安田文には筑波郡内に「筑波社五十六丁六十歩」とあり,これは「本納廿四丁五段大」と「加納三十一丁四段六十歩」の合計である(税所文書/県史料中世Ⅰ)。少なくとも鎌倉期までには本納・加納を備えた社領が確立され,のちの嘉元田文にも56町6反とある(所三男氏所蔵文書)。社伝によれば,建久2年に源頼朝が当社に参詣し社領を寄進したといい,常陸守護となった小田知家は筑波山麓に小田城を築くとともにその子息筑波八郎に筑波国造の名籍を継がせて筑波山の別当に補し,その支族筑波大膳を神官に任じて当社に奉仕させたという(県神社誌)。徳川家康は江戸城の東北方の守護神として当社を崇敬し,慶長5年にはそれまでの社家筑波氏を追放して大和国長谷寺の別当梅心院宥俊を代わりとして知足院中禅寺を再興,慶長7年には神領500石を寄進した。その後も幕府は,慶長5年に護摩堂を建立,元和2年には2代将軍秀忠が社堂を修理し,3代家光も寛永9年に社殿仏堂を再造した。5代綱吉は知足院の隆光を幕政に重用した。さらに貞享元年には護摩堂を江戸湯島に移し,元禄8年には筑波山の本坊とともに護持院と改称させ,神領1,000石を加増したので,社領があわせて1,500石となるなど,当社は江戸幕府の鎮守として日光東照宮とともに近世を通じて重要な役割を果たした。同時に筑波山周辺の村々には,中世以上に信仰が高まり,現在も根強く残る。一般に筑波山大当講・筑波講とよばれる講が村々に組織され,筑波山神社への参拝などが行われている。明治6年県社に列格。護持院(知足院)はそれ以前に廃されている。現社殿はすべて明治期以降のものであるが,参道の中央にある神橋は徳川家光が寛永10年に寄進した木造屋根付きの仮橋で,県文化財。境内社の春日神社本殿・拝殿,日枝神社本殿・拝殿,厳島神社本殿も県文化財,社蔵の備前一文字派吉宗作の太刀は国重文。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038336