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長幡部神社
【ながはたべじんじゃ】


常陸太田市幡町にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は多弖(たて)命。小幡足明神あるいは駒形明神とも称した。「風土記」久慈郡の条に「郡の東七里,太田の里に,長幡部の社あり」と見える。その成立は,古老のいわくとして「美麻貴の天皇(崇神天皇)のみ世」に「長幡部の遠祖,多弖命,三野(美濃)より避りて久慈に遷り,機殿を造り立てて,初めて織りき」とある。その布は内幡と称して「自ら衣裳(みけし)と成りて,更に裁ち縫ふことなく」とあって裁断せずして衣服となったという。また,絁(あしぎぬ)(太絹)を織る時には人に見せないために屋の扉を閉ざし,暗がりの中で織るためにこれを「烏織」と称したともいう。この布を「今,年毎に,別きて神の調と為して献納(たてまつ)れり」とある。当社は久慈郡太田郷に居住していた機織集団長幡部らの祖神を祀る社であった。「延喜式」神名帳久慈郡に「長幡部神社」の名が見える。社伝によれば,仁寿元年に正六位上に列し,明応10年までに正三位に達したという。同じく社伝に,中世以降小幡足明神・駒形明神と称し,また康平年間に源頼義が奥羽征討の折,当社に旗1流を献納して戦勝を祈願し,その後凱旋に及んで境内に鹿島・三島・神明・若宮八幡の四所を祀ったので,四所明神と称するようになったといわれる。延享年間に長幡部神社に復したという(県神社誌)。水戸藩主代々の崇敬にあずかり,特に徳川斉昭は弓矢・刀剣を奉納。除地は4石8斗余。明治6年郷社に列格。境内に続く一帯の台地は幡山とよばれ,前方後円墳や多数の横穴が存在する。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7038729