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西金砂神社
【にしかなさじんじゃ】


久慈郡金砂郷(かなさごう)町上宮河内にある神社。旧県社。祭神は大己貴(おおなむち)命ほか。もとは日吉山王権現と称した。社伝によれば,大同元年3月11日の創建。天台沙門宝珠上人が近江国比叡山から勧請したといわれ,神は鮑の舟に乗って水木浜(日立市)に上陸,夢告によって里人は真山山上にはじめ社殿を建てたが,しばらくして再び西金砂山山上に五色の雲がたなびいたので,社殿を造営してここに祀ったという。最初の地が現在の金砂本宮(金砂郷町下宮河内)。この頃は天台宗の寺院として定源寺とよばれ,北叡山にならって七堂伽藍が配備され,社領(寺領)1万石,衆徒300坊の偉容を誇ったという(県神社誌)。治承4年,源頼朝に攻められた佐竹氏はこの山に立籠ったが,やがて敗れて奥州花園に敗走した(吾妻鏡)。佐竹氏は平安期以来当社と深い関係を有したと思われるが,記録はない。佐竹氏ののち,この地域に勢力を張った二階堂氏は,建治年間,金砂別当職を増井の勝楽寺に寄付したと思われる(県史料中世Ⅱ解説)。しかし,建久年間には社領2,000石,衆徒は21坊に減少したといわれ,さらに応永21年12月に社殿焼失,同31年に再興された。室町期に勢力を回復した佐竹氏は,当社に保護を加え,天正17年8月27日には佐竹義重が当社勧進の事業にも判物を下している(西金砂神社文書/県史料中世Ⅱ)。翌年には豊臣秀吉が当社「金砂西山」に対して禁制を下している(同前)。以後衰退し,江戸期には朱印社領24石となる(県神社誌)。水戸藩の神仏分離政策によって定源寺以下諸坊が廃され,代わって現在の宮司中島氏の祖である聖護院派本山派修験の宝蔵院祐水が元禄13年に別当となる。以後の社領は黒印地26石といわれる(同前)。明治5年に郷社となったが,同6年に一時村社となり,大正9年に再度郷社に列格して,さらに昭和19年県社となった。境内にあるイチョウ・サワラの大木は県天然記念物。旧暦3月2日から行われる当社の祭礼は東金砂神社とともに行われ,大祭礼・小祭礼とよばれ,大祭礼は73年目ごとに行われる。第1回目は仁寿元年になされたといわれ,以後昭和6年までに16回の大祭礼が行われた。神輿の渡御と行列が神の漂着したといわれる水木浜まで赴き,いわゆる磯下りの神事がなされる。かつての祭礼の様子は絵巻物となり,今日に残る。小祭礼は7年目ごとである。大小祭礼には金砂田楽(県無形民俗文化財)が催され,田楽では四方固め,獅子舞,種子蒔,一本高足の曲目が演じられる。同じく祭礼に供奉する火消行列も県無形民俗文化財。




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「角川日本地名大辞典」
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