100辞書・辞典一括検索

JLogos

20

吉田神社
【よしだじんじゃ】


水戸市宮内町にある神社。延喜式内名神大社。常陸国三宮。旧県社。祭神は日本武尊。「新編常陸」は日本武尊の事績を記したのち,「初皇子コノ常陸ヲ過ギ玉フ時,兵ヲ社域ノ朝日山ニ息ハセ賜ヒニケルヲ以テ,神社ヲ建テ之ヲ斎キ奉ル」との創建伝説を載せており,現在も社伝として同様に伝えられる。「続日本後紀」承和13年4月丁亥条に「常陸国那賀郡従五位下勲八等吉田神預之名神」と見え,「文徳実録」天安元年5月壬戌条で従四位下となり,「三代実録」元慶2年8月8日条までに正四位下に昇階。「延喜式」神名帳那賀郡に吉田神社として名神大社に列せられている。那賀郡ではほかに名神大社として酒烈磯前神社がある。寛治4年の堀河天皇宣旨案に,正月1日以下年中の祭事料を書き上げたのち,これらの神祭料は「貞観十四年新羅海賊時」に朝廷より授けられたものだから,先例に任せて下賜すべしと見える(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。当社の貞観期以降の神階昇格が,当時の対新羅関係の緊迫化を反映したものであったことが知られる。これも当社が東国平定のための軍事的拠点であったことと無関係ではない。承平・天慶年間,常陸国は平将門の乱によって大混乱に陥る。将門の鎮圧にも当社は力があったとみられ,建暦3年4月15日の官宣旨写に「天慶年中依別勅願,寄加封戸奉増神位」とあり(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ),神位はさらに上昇したと思われる。当時の神官は吉美侯氏であったが,同氏は徐々に勢力を失いつつあった。承安2年12月29日の官宣旨案には,「当社者以吉美侯氏為社(禰)宜,所令行社務」であったが,「去長承之比,有事故,以当社社務,所寄付左大史小槻宿禰政重也」とあり(同前),長承年間に当社社務職が吉美侯氏から小槻氏に移っている。これ以後少なくとも鎌倉末期まで小槻氏を領家とする荘園となった。そして文永5年から7年頃と推定される宮中便補地別相伝輩并由緒注文案によれば,鎌倉期には「宮中便補地」の1つとして扱われている(壬生家文書/図書寮叢刊)。宮中便補地になった時期は不明であるが,平安期と思われる。別補地支配が,国衙在庁や郡司層の圧力によって不安定になった時点で,弁官に左大史として属していた小槻氏がその領家となったと考えれば,さほど中央において強大な権限を有したとは思えない小槻氏が,辺境にある当社の領家となった理由もうなずける。国衙在庁などの圧力とは,国役の賦課,社領の侵犯であり,当社の荘園化は平安末期の地方神社が等しく経験する国衙や在地領主層との対抗関係を背景としている。一方,これ以前も以降も,当社は国衙による国内神祇統制の中に位置付けられ,それはやがて常陸国三宮と称されるようになることでもわかる。建暦3年4月15日の官宣旨写に「当社者国内第三之鎮主(守),霊験無二之明神也」と主張され,そうした国内での格式を基盤として,当社の造営は「吉田・那珂両郡,所令造営」であった。律令郡である那賀郡と,平安期に那賀郡より分かれて成立してきた吉田郡が,当社造営役を負っていたのであり,この頃この両郡(特に吉田郡)と当社は極めて密接な関係となっていた。こうした郡単位の関係は,国衙在庁あるいは郡司級在地領主の介在なしには考えられず,建暦3年の官宣旨写に「国司守旧式支配之処,郡司巧新儀対捍」するとの神官の言葉も,郡司がむしろ当社と不即不離の関係にあったことを示している。しかしここにみられるように,鎌倉期には郡司との関係よりも,国司との友好的関係の方が表面化しはじめており,これも小槻氏が国司を官僚的に操っていた結果であろう。造営役以外でも,神事料などは建暦3年の官宣旨写によれば「那珂東西両郡」が国符に任せて課されていた(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。しかしこれも,東郡分は建仁元年以後11年間,東郡公文慶宣法師によって対捍されている。当社の造営は20年に1度が建て前とされ(同前),長寛元年(推定建久4年小槻隆職告文),建久4年(同前),建保2年(建保2年2月吉田社造営用途注進状写),仁治2年(仁治2年3月27日吉田社領家小槻某下文写),延慶2年(延慶2年2月24日右衛門尉某・左衛門尉某連署奉書写),元弘3年頃(元弘3年12月3日吉田社領家小槻千宣御教書写)が確認される(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。鎌倉前期の建久4年の造営は,長寛元年以来30年ぶりということもあってか,国司と社家との共同によるものとして実に満足のゆくものであったと,領家小槻隆職は告文に述べている。これも,平安末期~鎌倉初期の動乱を乗り切った領家・国司・神官などの共通の感慨であったろう。しかし次の建保期の造営では,作事のための小槻方の定使である包安という者が,社殿の用材に古木を用いたり,仁治2年の造営の時には三鳥居・庁屋などの建物が未作のままであったりしており,鎌倉中期以降には早くも領家の権限,国司の実権が危ういものになりつつあった。当社の経済は,古くは官社としてそれ相当の神封が与えられ,それによって賄われていたと考えられる。さきの寛治4年の宣旨に見えるように,貞観14年に祭料として830束が与えられたのもその一例である。社領が成立しはじめるのはやはり平安期も中頃以降と思われ,さきの承安2年の官宣旨案では,社領すなわち神田が「不輸之地」「非公田之儀」「神人者不課民」と意識され,社領には「勅事国役不可宛課」と見え,この頃までには一定の領域支配が定まっていたと思われる。平安末期までに成立した社領の実態は未詳だが,寛喜元年7月の吉田社領家小槻某下文によれば,「当社領田百五十町六段半」で,基本的にはおおむねこの田数が鎌倉期を通じて変わっていない(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)。ただし嘉元田文では「勅免地」として「吉田社 百五十八丁六反半」とあり(所三男氏所蔵文書),若干相違がみられる。応永12年10月8日書写の安貞2年吉田郷等田地検注目録によれば,この社領は吉田・酒戸・河崎・吉沼・山本・常葉・袴塚・宇喜の8郷と,細谷・神生・佐渡の3村,それに西石河・恒丸名などが含まれている(吉田薬王院文書/県史料中世Ⅱ)。安貞2年以降,領家小槻氏によってたびたび行われた社領内郷村の検注は,こののち室町期に至るまで社領支配の基本台帳とされていた。南北朝期の動乱で社領の大半が失われるか,あるいは支配が困難になりつつあったと想像され,以降の文書は極めて少ない。社勢の衰えた神社に代わって,神宮寺が当社の主導権を握るようになったと思われ,神宮寺薬王院の文書数は室町期に集中して残る。当社の室町・戦国期における動向はほとんど不明となるが,年中の祭礼・行事は年未詳吉田社神事次第写にみられるように(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ),周辺の吉田郷などの社領に課された神役によって,かろうじて継続していた。領家であった小槻氏の名が見えなくなるのは鎌倉末期であるが,おそらくこの頃,当社の領家は鷹司家に移っていたと考えられる。「兼右卿記」永禄8年7月6日条に,当社領家小槻氏代々の名を連ねたあと,「鷹司殿,為御朝恩御知行,自延慶年中至今」とある。鎌倉末期からこの永禄年間まで,当社領家は鷹司家が知行していた。ただし鷹司氏関係の史料は当社関係史料にはこれ以外みあたらず,おそらく鷹司家は社務などの実権を握っていたというよりも,形式的・名目的な領家であったと思われる。この領家歴代の書を吉田家に提出したのは,実は当社神官田所氏自身であった。永禄8年7月,神主田所氏は吉田兼右に使を遣わして親交を求め,これに対して兼右は書状を当社に下した。田所氏は翌9年に上洛して兼右を訪問し,以後吉田家の配下に属するようになったらしい(水戸市史)。やがて昔日の面影を失い,慶安元年10月24日に徳川家光から与えられた朱印地は15石にすぎない。寛文8年,徳川光圀は社殿を修復して当社を崇敬し,弘化元年にしてようやく徳川斉昭は水戸藩内の総鎮守として100石を寄進した(水戸市史)。明治6年には県社に列格。昭和20年の空襲で社殿を焼失,この時に吉田神社文書が全て焼失してしまったが,今日彰考館所蔵の写本などが残る。社殿は昭和23年に再建され,そのほかの建物も徐々に再建されて今日に至っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7040297