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雲巌寺
【うんがんじ】


那須郡黒羽町雲岩寺にある寺。臨済宗妙心寺派。山号は東山。本尊は釈迦牟尼仏。「下野国誌」などに載る当寺旧記によれば,平安末期崇徳天皇の大治年中,叟元和尚の開基。叟元は京都禅林寺(永観堂と通称,京都市左京区)の永観律師の教えを受け,関東に行脚して当寺を開き,多くの門弟を集めた。保延元年叟元の入寂後は,諸宗の僧が来住。修験山伏の勝願が,高峰顕日(仏国国師)に参学して当地を与え,弘安6年執権北条時宗が大檀那となり,高峰を開山に迎え禅刹として再興したと伝える。開山の高峰は伝記「仏国国師行録」(続群9上)によれば,後嵯峨天皇の皇子で,16歳で奈良東大寺に受戒し,京都東福寺開山の円爾に参学した後,21歳の文保2年頃当地に隠遁。高峰の徳風を慕った領主が当寺を開創したと記し,前記の寺記と相違する点が見られる。この後来朝僧無学祖元より嗣法して,鎌倉の建長・浄智・浄妙諸寺に歴住,夢窓疎石・太平妙準(当寺2世,仏応禅師)・大同妙喆(宇都宮伝法寺開山)など多数の弟子を育て,正和5年に入寂。2世の太平は町内大豆田の出身と伝え(黒羽町誌),寺の発展に努め鎌倉末期には下野国を代表する臨済宗寺院として夢窓疎石以下多くの禅僧が訪れている。室町幕府による臨済宗寺院保護の様子については,文書の焼失などで未詳だが,幕府の制定した五山官寺制度では十刹寺院とされ,真岡能仁寺(真岡市根本)と並んで下野国内で最高の寺格を与えられた(扶桑五山記,撮壌集/続群30,蔭涼軒日録延徳4年6月2日条)。戦国期天正6年,京都妙心寺の大虫宗岑(無住妙徳禅師)を住持に迎えて現宗派の寺となる(黒羽町誌)。同18年豊臣秀吉の小田原攻めの際,秀吉の命に背いた烏山城主那須資晴が当寺に立籠ったとして兵火に罹り,寺領も没収された。この後大虫が寺基の再興に尽力し,彼を中興開山とする(同前)。江戸期の慶安元年境内地を含め寺領150石の朱印状が下され(寛文朱印留),将軍家への年頭御礼に甲斐国長禅寺・武蔵国平林寺など6か寺とともに白書院独礼の待遇を与えられた(寺格帳/続々群12)。元禄2年夏,「奥の細道」の途次,黒羽城代浄法寺邸に逗留した松尾芭蕉は,当寺に参詣し「木啄も庵はやぶらず夏木立」の句を残す。弘化4年の火災で方丈・庫裏を焼失したが,嘉永2年に再建,この火災を免れた仏殿も大正11年に再建され,昭和25年には山門前の瓜瓞(かてつ)橋(慶長14年再建在銘)が架け替えられ,同55年には坐禅堂が新築されるなど堂宇の整備が進む。現在も広い境内には本堂・方丈・山門・鐘楼などの七堂伽藍が立ち並び,禅宗の思想を含んだ鉢孟峰以下の十境や独木橋・瓜瓞橋など五橋,都寺泉など三井(三水)がある。寺宝の開山仏国国師頂相と2世仏応禅師頂相はともに絹本著色で国重文。前者は温和な国師の人柄をしのばせる鎌倉末期の肖像画で,上部に高峰自筆の賛があり,後者は貞治癸卯(2年)9月24日の賛があり,南北朝期を代表する写実的な肖像画。両作品は現在東京国立博物館に寄託中。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7040864