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笠石神社
【かさいしじんじゃ】


那須郡湯津上村湯津上にある神社。祭神は那須国造直韋提。神体は総高147cmの那須国造碑(国宝)。碑の頭上に笠に似た石があるので笠石ともいい,それが社名の起こりとなった。石材は八溝山系の花崗岩で,碑身の前面に六朝北魏の書体で8行19字詰め,計152字が陰刻されている。多賀城碑・多胡碑とともに日本三碑の1つ。この碑は,文武天皇4年に当たる庚子年正月に死亡した那須国造直韋提の徳をしのんで意斯麻呂らが建立したもので,韋提は豊城入彦命(崇神天皇皇子)の子孫という。碑文中には唐の則天武后の「永昌元年」(持統天皇3年)の紀年も見える。当地付近は上・下侍塚古墳,那須郡衙跡(以上国史跡),三輪神を祀る延喜式内社三和神社があり,古代那須国の中心地だったと考えられ,建碑における渡来人の係りとともに,下野の古代史研究上欠くことができない。また発見以来原位置の近くに保存されていることも意義深く,日本古代金石文資料の中でその占める位置は大きい。江戸期までこの碑は1片の石として草叢の中にあり,里人が馬繋ぎに用いたりして汚すと祟りが生ずると恐れられていた。延宝4年奥州磐城の行脚僧円順が,古碑であることに気付き小口村の庄屋大金重貞に知らせた。当時小口村は水戸藩領だったので,重貞は天和3年馬頭村に止宿した徳川光圀に報告,貞享4年に石碑保存のための覆堂建立の計画が進められ,元禄5年4月に完成した(笠石建立記/県史古代付録)。また馬頭村の大宝院を別当として石碑の管理に当たらせた(佐々宗淳書状/同前)。光圀は那須国造の墓誌追究にも熱心で,碑の横たわっていた塚を発掘したり(那須拾遺記),上侍塚・下侍塚古墳を発掘させたりしている。しかし両古墳からは剣・甲冑・鏡などが出土したのみで(元禄5年2月湯津上村車塚御修理帳/県史古代付録),古墳の年代観の錯誤もあって失敗した。その後別当は隆真院に替わり,碑堂も宝暦元年,寛政2年,文政6年,安政3年に修復され(大金重徳家所蔵文書/同前),現在に至っている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7041203