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樺崎八幡宮
【かばさきはちまんぐう】


足利市樺崎町にある神社。旧郷社。祭神は誉田別命・豊城入彦命・大己貴命・事代主命。赤土(あかつち)命・源義称命(足利義兼)を配祀する。赤土神社,赤土山八幡宮などと呼ばれた。八幡山の東山麓に所在する。社伝では,承和5年9月村内鎮護のため,付近の土質が赤土であるため名付けられた赤土神を祀ったのが創祀という。赤土神は「日本書紀」神代四神出生条の一書に,伊弉諾尊が橘の小門でその身をすすいだ時に生まれた神と見え,住吉3神のうちの中筒男命の音の転訛による神名といわれる。源義家が前九年の役での奥州平定の帰途,康平6年8月に誉田別命を合祀,さらに出家して当地に隠棲していた足利義兼が正治元年3月に没すると,その子義氏が義兼の霊を相殿に祀り,赤土八幡宮と称したといわれる(旧県史3)。しかし義兼は八幡山の東麓に葬られたと伝え,現在当社本殿の床下には墳墓が存在することから,これが義兼の墓だとすれば,後になって八幡神が勧請され神社として創祀されたことになる(近代足利市史1)。宝永4年4月の鑁阿寺略縁起によれば,朱丹を塗った義兼の廟塔は赤堂と呼ばれたとあり(鑁阿寺文書/県史中世1),この赤堂が前身とも考えられる。また赤土神の伝承もこの赤堂と関係あるかもしれないが,いずれも詳細は未詳。法界寺が別当として奉仕し歴代足利氏や関東管領の篤い信仰を受けたが,室町中期には法界寺が廃絶したため社家のみの奉仕となり,以後は戦国末期の争乱も加わって衰退した(旧県史3)。法界寺は義兼が亡母の菩提を弔うために建立した寺で,当社地がその寺址に充てられる(足利の歴史)。天正19年11月徳川家康から20石の朱印地が寄進され,寛永19年にも家光から樺崎のうちに同額の社領が安堵された(旧県史3)。天和年間に現本殿を造営し,大正7年郷社に列格。例祭は10月19日。境内地2ha余は法界寺址として市指定史跡。境内の杉1本は市指定天然記念物。かつて南北朝初期の19基の五輪塔群があったが,明治維新に際して市内菅田町の光得寺に移された。うち観応2年2月26日在銘の五輪塔は高師直(足利尊氏の執事)のものという。義兼が隠棲していた時鶉を飼っていたが,その鶉が義兼の夢の中で解放を願ったため,村内で鳴かないことを条件に放したといわれ,それにより鶉が鳴いた時は村内に災害の起こる前兆であるとする俗信が氏子に伝わる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7041289