小曽戸村
【こそどむら】

旧国名:下野
(近世)江戸期~明治9年の村名。都賀郡のうち。元禄4年以前は安蘇郡に属したともいうが(安蘇郡誌・市町村誌),「慶安郷帳」「寛文朱印留」では都賀郡と見える。秋山川支流小曽戸川源流域に位置する。中世における当地の領主に小曽戸氏があった。同氏は薩摩の島津氏の4代忠時の子忠佐が,鎌倉末期,藤姓足利有綱の孫娘で戸矢子保内梅沢・千手・寺尾村の領主であった加賀局と結婚し,その所領を受け継いで勢力を伸ばし,南北朝期には,足利方に属し,応永年間頃,盛忠が鍋山に城館を築き,小曽戸氏を称したという。文明年間以後佐野氏に仕えたが,佐野氏改易後当村に帰農した。はじめ佐野藩領,慶長19年幕府領,元和2年小山(おやま)藩領,同5年小山藩主本多正純が宇都宮に転封するに伴い宇都宮藩領となり,同8年再び幕府領となる。代官は,はじめ小林十郎左衛門,正保3年古賀三左衛門,慶安元年朽木源左衛門,承応2年本多佐五兵衛,元禄3年植島孫治左衛門,同15年比企長左衛門が勤めた。宝永4年からは旗本佐野氏知行。なお,「寛文朱印留」では武蔵岩槻藩領,「元禄郷帳」では幕府領,「改革組合村」「旧高旧領」では佐野氏知行と見える。村高は,「慶安郷帳」682石余(田164石余・畑518石余),「元禄郷帳」985石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,018石余。「改革組合村」では栃木町組合寄場に属し,天保年間の家数77。元禄13年日光神領の困窮のため,幕府は当村をはじめとする幕府領16か村を「足知」することに決めたが,日光側の反対のため宇都宮藩領6か村を「足知」することになり,当村の領知替えは中止となった(県史近世6)。当地では古くから石灰の採掘が行われており,江戸後期には野州石灰の流通をめぐる争論が発生しているが,これらの史料に当村の竈元として半兵衛・佐源治の名が見える(県史近世5)。慶応4年の戊辰戦争下では,政府軍滞陣に伴い当村は安塚村の当分助郷を命じられている。同年の都賀郡安塚村当分助郷村々高人別取調帳によれば,安塚村までの道のり7里,村高のうち280石が安塚村当分助郷勤高,750石余が諸引と見え,家数65・人数434,うち男224・女210(県史近世7)。明治4年栃木県に所属。明治初年の村高1,011石余,家数99。明治9年会沢村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7041846 |





