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高椅神社
【たかはしじんじゃ】


小山(おやま)市高椅にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は磐鹿六雁命・国常立命ほか5神。高橋大明神などと呼ばれた。現在では「鯉の明神さま」ともいわれる。社伝によれば,景行天皇41年日本武尊が国常立命などを勧請したのが創祀で,天武天皇2年に磐鹿六雁命を配祀したという。「高橋氏文」によれば磐鹿六雁命は安曇氏とともに内膳司を職掌とした高橋氏の祖神で,房総で景行天皇に白蛤を料理して献上したといわれる(本朝月令/群書6)。高家神社(千葉県千倉町)の祭神でもある。当社付近(市内粟宮)には安房国安房神社を勧請したと伝える安房神社があり,安房勢力の当地への進入を物語るものかもしれない。ただ,承応元年11月付の高椅大明神社旧記,年未詳の高椅大明神社略由来記(いずれも「小山市史」所収)には磐鹿六雁命の伝承は見えず,後に付加されたものであろうか。「延喜式」神名帳には下総国結城郡条に「高椅神社」と見え,以後も永く元禄年間まで結城郡に属した。長元2年に井戸を掘ると大きな鯉が出現したので,天皇に献上すると,勅命でその鯉を池に放ち,以後鯉を食することなどが禁じられたと伝える。このため鯉の明神と称される。中世に小山政光(小山氏祖)の子朝光が結城氏を称して当地を支配すると,歴代結城氏の崇敬を受け,結城郡の惣社として隆盛であった(旧県史3)。神社背後の湧水は,結城領の用水源であったと推定され,結城氏にとって重要な神社だったのであろう。特に戦国期には結城政直・政勝・晴朝3代が,結城第1の社として格別に保護し,多くの社領を寄進した。享禄4年9月結城政直は高橋・福良村の内360貫文を,天文24年正月には政勝が楼門の上葺のため寒川・網戸郷各1貫文を,3月にも小栗・具地羅(茨城県協和町)・今泉三郷(同県岩瀬町)・発田(下館市)などで計3貫文をそれぞれ寄進した。晴朝も天正5年9月に宮廻10貫文を寄進するなど,社領の安堵・寄進が相次いだ。さらに天正13年5月には延島・新河・高橋・簗などの周辺郷村への造営勧進の権益も与えられ,結城郡の北半分をその信仰圏としていた(以上,高椅神社文書/県史中世1)。弘治2年11月25日付結城氏新法度には,「たかはしのまつり,其外神事祭礼之場之けんくわ,何と聞候も理非なしの酒くるい也」と見え,旧暦9月9日の祭礼が近郷の農民・武士の参加で熱狂的な祭の渦となり,喧嘩の続発となっていたことが知られる(松平基則氏所蔵文書/県史中世2)。文禄5年正月結城秀康(晴朝の孫婿,徳川家康次男)は,結城領堀込村で20石,結城萱橋村で10石の社領を充行った。慶長5年秀康は越前福井に転封となり晴朝も同行したが,晴朝は同7年当社や結城市の六本寺,伊勢神宮などに結城帰城を祈願している。当社への願文には,「成就結城江帰城」「知行方晴朝如存分,於結城給置事」と見え(高椅神社文書),結城を離れた結城氏の先ゆきに不安と不満を交錯させていたことが想像できる(結城市史4)。秀康は福井転封以後も代参を欠かさず(年未詳松平大和守家臣書状など/小山市史),慶安元年7月には徳川家光から「結城郡明神領」として高橋村の内に30石の朱印社領が寄進され,社中竹木諸役等も免除された(高橋村高椅大明神社領朱印状/小山市史)。明治5年郷社,同10年県社に列格。例祭は10月9日。天文24年結城政勝寄進で,天井の八方睨みの竜が有名な神門は市指定文化財。料理の神として崇敬され,調理人の信仰が篤い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7042513