月次
【つきなみ】

旧国名:下野
南流する江川の流域,東西の丘陵に挟まれて位置する。地名の由来は,古くから那須氏の領地で,那須党の武士らが当地において月の晦日を期して軍評定を開くことを恒例としたことによるという(那須郡誌)。字寺田に寺田遺跡という集落遺跡があり,土師器・壺・皿などを採集している。また,主要地方道烏山矢板線の熊田近くに道路を挟んで2つの塚があり,両塚上に寛文年間烏山城主板倉内膳正重矩の植えたといわれる通称板倉桜がある。字鳴井の加茂神社境内に湧泉があり,鳴井の地名は,清泉が鳴り響いて湧き出るところから起こったものである。月次館跡は,高さ6~7尺,長さ70間ほどの土塁を囲繞してあったが,現在はことごとく破壊され,わずかに西と二の丸の北とに高さ4~5尺の土塁が残るだけである。二の丸は御家老屋敷とか姫屋敷と称されている。同館は須藤権守貞信の4世の孫那須肥前守隆明が承久年間頃に築いたと伝える。隆明4世の孫須釜四郎左衛門隆英は,永正17年8月白河義永・岩城常隆の両勢が烏山城主那須資房を攻めたとき,白河勢に与して資房の嫡子政資を山田城(黒羽町片田)に囲んだが,那須資房の援軍が背後から襲撃したので隆英は大敗して討死したという。のち天正年間,月次弾正行安がこの館に居住したと伝えられる。天正13年12月8日,千本常陸介父子が滝寺(烏山町滝の太平寺)において那須資晴のために殺害されたとき,千本常陸介の家臣竹原隆業は主君の仇を報じようと欲して月次行安の剛勇を頼み,同月9日月次館を訪れ報復の策を謀った。しかし,月次弾正は報復が成功しがたいと思い,竹原隆業にしきりに酒をすすめ酔いに乗じて隆業を殺した。弾正は竹原隆業の首級を烏山城主那須資晴に献上したが,世人は甚だこの仕打ちを憎んだという。同18年月次城は廃城となった。
【月次村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【月次(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7042669 |





