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那須開墾社
【なすかいこんしゃ】


明治期の開墾会社名。いわゆる那須野ケ原大農場の1つ。明治13年,栃木県北の有力者である印南丈作と矢板武は,那須野ケ原の開拓事業を企画し,県内外の有志10人を糾合して那須野ケ原の内,那須西原の官有原野3,000町歩の貸下を受けた。印南と矢板は,明治9年中から当時の栃木県令鍋島幹(貞幹)とともに,那珂川上流から鬼怒川に至る大運河計画に強い関心を寄せ,同11~12年はその実現に努力していた。ところが,同12年,この陳情に関して大蔵大輔兼勧農局長の松方正義に面会した際,運河は後まわしにして開墾に着手すべきことを諭され,更に13年早々には三島通庸(当時山形県令)によって那須西原1,000町歩の貸下願が出された。印南と矢板はこれに刺激され,開墾事業に着手することになったらしい。同年中には事務所及び付属施設の建築に着手し,翌年第1回の株主総会を開いた。株主は67人で,社長には印南丈作を選び,社名を那須開墾社と定めた。近代的会社制度で,社則というべき申合規則(42条)を定めた。これによると,株数は200株で,事業は開墾600町歩・植林1,400町歩・牧場1,000町歩を目的とした。同年,900町歩の追加貸下を受けたが,同年中この内の500町歩を陸軍卿の大山巌と農商務卿の西郷従道に譲った(加治屋開墾)。結局那須開墾社の貸下地は3,419町余となったものの,那須野ケ原最大の農場であった。これにより申合規則の一部を改め,開墾600町歩・植林1,600町歩・牧場1,200町歩とし,総株数を230に増やした。開墾事業は,畜力による大農具使用と,各種の労力によった。大農具は内務省から借用したり,勧農局から払い下げた欧米式大農具で,この使用には下総勧農局試験場で技術を習得した者が当たった。労力は,周辺村落の「無株金株」の出役人夫と,宇都宮監獄からの借用囚人,それに移住人とがあった。無株金株の明治14~16年の延べ出役人員は1万7,121人,囚人の同14~20年の延べ人員は2万3,530人に及んだ。移住人は同14年に導入計画を立てたものの,同17年までは42戸に過ぎなかった。しかし同18年に那須疏水が開削されると急増し,同18~19年には新たに138戸の移住があった。この移住人の出身地は,長野県が多かった。これらの大農具と労力によって開墾された面積は,明治16年までに60町余に及んだ。作付種は陸稲が主であった。牧畜事業は同14年に始め,県営那須牧場や勧農局から和種および洋種牛を借用し,和洋交雑種の繁殖をはかった。飼育牛は同19年に41頭の多きに及んだが,すべてが乳牛ではなかったらしい。他に馬や豚も数頭飼育した。しかし牧畜事業は赤字つづきで,同21年には廃止した。植林事業は同14年から始め,苗木(主として松)植付と種子蒔付,それに自然林育成を主とし,26年までに松苗木27万6,000本の植付と椚(櫟)種子13石余の蒔付を行った。当時原野に野火が多く,野火の防止には大変な苦労をしている。株主は明治15~16年の不況の頃に大幅な異動があり,その大半は東京方面の有力者の手に渡った。同18年,貸下地の一部の,そして20年には残地すべての払下げを受けた。払下価格は1町歩1円であった。同21年社長の印南丈作が死去し,矢板武が2代目社長に選任された。この直後の株主総会で事業は大幅に縮小し,植林事業に重点を置くこととなった。また植林地と移住人分与地などを除いた土地は,株主に株数に応じて分配した。主な株主と面積は次の通り。松方正義(235町歩)・烏山利貞(152町歩)・矢板武(151町歩)・大久保利和(119町歩)・佐々木高美(129町歩)・大島高任(95町歩)・吉田市十郎(同)・金井之恭(80町歩)・岩崎久弥(71町歩)。これらは,華族や知名人が多く,小規模ながら農場経営を行った。同26年には,植林地1,145町歩を松方正義長子の巌に売却した。松方家では松方(千本松)農場を開設し,牧畜及び植林事業を大々的に行った。こうして那須開墾社の事業に終止符を打ち,同26年末に会社解散届を出した。解散時までの開墾反別は515町歩,移住者は315戸・1,500余人にのぼった。なお,那須開墾社の区域は,明治18年に加治屋開墾区域を合わせて那須野村を創立し,同22年の町村制施行の際に西那須野村と改められた(西那須野町史)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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