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日光東照宮
【にっこうとうしょうぐう】


日光市山内にある神社。旧別格官幣社。徳川家康を主祭神とし,豊臣秀吉・源頼朝を配する。神紋に徳川将軍家の葵紋を用いる。元和2年4月17日,徳川家康は駿府城で75歳で没し久能山に神葬されたが,「一周忌を過候て以後,日光山に小き堂をたて勧請し候へ」(本光国師日記20)との遺言に従い,2代将軍秀忠は同年10月26日天海・藤堂高虎・本多正純らに神廟造営を下命,藤堂が社地の総括縄張りを行い,本多が造営奉行を務め,幕府大工頭中井大和守正清の設計・施行により造営に着手,翌元和3年3月本社・拝殿・本地堂・御仮殿など主要社殿が完成し,久能山から神柩を移し,同年4月16日夜正遷宮が行われ,翌17日将軍秀忠はじめ公武参列のもと祭礼が執行された。その間2月17日には朝廷から東照大権現の神号並びに正一位の神位が授けられた(徳川実紀)。その後3代将軍家光は寛永11~13年に幕府の巨費を傾け社殿を造替した。「東照宮御造営目録」によれば工期1年5か月,総工費金56万8,000両,銀100貫,米1,000石,工人延べ総数454万人余とある(東照宮文書)。造営の総奉行は秋元但馬守泰朝,設計・施行は幕府作事方大棟梁甲良宗広で,絵画彩色は狩野探幽が狩野派を率いてこれに当たった。現在の東照宮の諸建造物の大半は,この時造替されたもので,本社,唐門,陽明門,回廊,御仮殿など約30棟に及んでいる。奥社宝塔は少し遅れて寛永18~19年にかけて巨大な石造宝塔に造り替えられた。その後,社殿の維持に意を尽くし元禄の大修理をはじめ江戸期を通じ主な修理だけでも20数回を数えている。承応3年には,火災予防の為,本社・唐門・陽明門など主要建造物が,それまでの檜皮葺を銅瓦葺に改めるなどの部分的変更もあったが,そのほとんどは塗装工事が主であった(徳川実紀・日光造営録)。初め社号を東照社と称したが,正保2年朝廷より宮号が宣下されてから東照宮と称する。又この時改めて正一位が授けられた(東照宮所蔵文書・徳川実紀)。鎮座以来朝廷からは第7,13,17回神忌などにたびたび勅使・宣命使・奉幣使等が参向したが,宮号宣下の翌年臨時奉幣使が,翌々年からは毎年4月の祭礼に奉幣使が参向するようになり,日光例幣使と称し幕末の慶応3年までの222年間続けられた。例幣使はおおむね参議の公卿が任命され,毎年4月1日に京都をたち中山道を下り,上州倉賀野からいわゆる例幣使街道に入り,15日日光着,16日早朝神前に奉幣,宣命を捧げ,拝礼し,大猷院(家光廟)にも詣で,本坊で饗応を受け即日帰路についた。帰路は江戸から東海道を下り4月末に帰洛している(徳川実紀・晃山拾葉)。東照宮維持のために元和6年秀忠は17か村5,000石を社領として寄進,寛永11年3代将軍家光は足尾・今市など旧来の日光山領4か村2,000石を東照宮領に組み入れ都合22か村7,000石を寄進,さらに4代将軍家綱は明暦元年社領を1万石に改め,この時新たに寄進された大猷院領3,600石とともにいわゆる日光領の本高1万3,600石が設定され,東照宮・大猷院の年中行事・配当目録を定め日光山条例が下され,管理体制が示された。その後,日光領は寛文7年の検地増加や元禄13年の新領追加によって,都賀・河内・塩谷・安蘇諸郡78か村実高約2万5,000石に達し,貢租は定免3割5分と定められた(内閣文庫蔵日光山御判物之写・徳川実紀)。日光領は門主を領主とする社寺領で,有力衆徒や社家が合議し,年貢の徴集など,直接支配には,はじめ,日光目代山口氏が代々世襲しこれに当たったが,寛政改革以後,日光奉行の手に移った。日光奉行は,元禄13年に設置され,はじめ日光山の監察・警備を第1の任としたが,寛政以後,目代の権限をも併せ,日光領を直接支配し裁判権をも有した(徳川実紀・寛政3年当役者日記)。幕府は寛永17~18年には山内の民家を東西両町に移すとともに門前の各町を整備し(旧記・日光山志),防火対策としては正保4年大番組に勤番を命じ(徳川実紀),大猷院の造営が始まった承応元年には八王子千人頭に日光火之番を命じたが(桑都日記・日光御番覚帳),以後明治元年まで210余年に及んだ。東照宮の日光鎮座以後江戸城内をはじめ御三家はもちろん,親藩・譜代・外様大名の城下,徳川家ゆかりの神社・寺院に至るまで各地に東照宮が勧請され,小祠をも含めると数百に及ぶ(東照宮調)。境内には諸大名奉納の灯籠121基があるが,黒田長政奉納の石鳥居,鍋島勝茂の水盤,酒井忠勝の五重塔(いずれも国重文),松平正綱父子の杉並木など,特に著名である。杉並木は寛永2年頃から20年を要して東照宮に至る日光街道・例幣使街道・会津西街道の延長37kmに約20万本が植栽されたもので(杉並木寄進碑文),現在約1万5,000本が残され,国の特別天然記念物・特別史跡に指定されている。朝鮮との国交が回復されると通信使がたびたびわが国を訪れているが,寛永13年・同20年・明暦元年の3回にわたり東照宮に参拝し朝鮮国王の書額や洪鐘(通称虫喰鐘),銅三具足などを献じ,国王の祭文をささげている(癸未東槎日記ほか)。また,江戸期鎖国後西欧では唯一の交易国となったオランダの長崎商館長より,寛永年間3度にわたり将軍に献納された青銅の灯籠(通称オランダ灯籠)が,将軍家光の手を経て東照宮に奉納されている。江戸期東照宮の奉仕者は鎮座後,中世以来日光山の奉仕者の家柄の者などが召し出され,貫主天海の下次第に体制が整った。天海の後公海が継いたが,やがて後水尾天皇の皇子守澄法親王を奏請して日光門主に迎え,明暦元年には輪王寺宮を興した(内閣文庫蔵日光山御判物之写)。この宮門跡は江戸の東叡山に常住し,日光・東叡・比叡の3山を兼ねて管領し,日光山には1・4・9月の3度登り東照宮の祭礼をつかさどった。日光山は,本坊留守居の下に学頭・別当・衆徒20か院・社家6名・一坊80か坊・楽人20人・宮仕10人,社家の下に神人76名・八乙女8名,目代の下に神馬別当,掃除頭2名,7か所番所同心42名などが置かれ,神仏混淆で奉仕が行われ,大猷院や二荒山神社にも奉仕した。学頭は東照宮領より高300石,東照宮別当大楽院・大猷院別当竜光院はそれぞれの領地より高150石,衆徒は東照宮領より100石と大猷院領より20石の計120石,社家は東照宮社領より配当高100石を領し,他に馬飼料50俵を給され,久次良・蓮華石などの広大な居屋敷に住み,祭儀には四位の衣冠が許され,寛政改革以後正六位下に叙任された。楽人は,各35石5人扶持,一同に東遊料300俵が給され,おおむね四軒町に住した。宮仕は各15石,神人は各5石宛給され,多く農村部に住した。八乙女は各3石5斗,鉢石宿の大横町(八乙女町)に住した。御神馬別当は,久能山からの遷座以来若林家が世襲,50石を領した。初代の神馬は関ケ原戦の家康の乗馬が献じられ,以後,幕府から奉納された神馬が常時3頭程繋養された(日光山森羅録・日光山御宮方書物之写・日光山諸給人由緒書)。なお,東照宮の神馬は明治以降は宮家などから,第2次大戦後はニュージーランドからも奉納されている。東照宮を主体とする近世日光山は幕府の聖地と目され2代将軍秀忠以降12代将軍家慶まで前後19回に及ぶ将軍の日光社参が行われた。2代秀忠は元和3年,同5年,同8年,寛永5年の4回,3代家光は元和9年,寛永2・5・6・9・11・13・17・19年,慶安元年の10回,4代家綱は慶安2年,寛文3年の2回,8代吉宗は享保13年,10代家治は安永5年,12代家慶が天保14年の各1回社参を行っている。社参はおおむね神忌の年の4月に実施された。初めは質素なものであったが日光道や宿駅が十分に整備され次第にその行列も大規模となり,特に東照宮の寛永大造替の成った寛永13年の社参は,御三家はじめ20余侯が供奉し,「壮麗耳目を驚かす」とある(徳川実紀)。社参の行程の多くは4月13日江戸城出発,いわゆる日光御成街道を経て岩槻・古河・宇都宮城に泊り,16日に日光到着,17日祭礼拝観の後,神前に太刀馬代などを納めて参拝,大猷院にも詣で,翌日帰路についた。将軍日光宿営の殿舎として寛永5年御成御殿が創建されたが(日光造営録),後廃され,8代吉宗からは本坊御殿が充用された。又,毎年春秋の例祭には将軍名代や祭礼奉行の大名が参拝した。諸大名や幕臣の参拝も多く,林羅山の「日光山記」(承応2年),伊達吉村の「日光山紀行」(正徳3年)を初めすぐれた祭儀記録,紀行,詩歌が多数残されている(東照宮所蔵文書)。庶民も早くから参拝が許されていた。世に言う「日光見物」が盛んになると絵図・名所記などの摺物が行われるが,摺絵図では承応2年の「下野国日光山之図」が,名所記では元禄2年の「日光山名所記」が最も古く,その後は枚挙にいとまがない。それらの中では八王子千人同心組頭であり,日光火之番としてたびたび日光に赴任した植田孟縉が,官許を得て刊行した「日光山志」(天保8年刊)は,一般には叙述し得なかった東照宮の社殿・神事をも解説し,故事沿革を詳述したもので,特に著名である。参拝に関しては下乗の位置,拝観区域,拝礼位置など厳格な定めがあり,陽明門をくぐるには士分でなければならず,拝殿内には大名でも四位以上,幣殿(本殿)に進んで拝礼できるのは将軍唯一人であった(社家御番所日記18巻・柴田豊久著作集)。元禄2年,奥の細道の旅の途次松尾芭蕉が訪れ「あらたふと青葉若葉の日の光」の句を残している(奥の細道)。東照宮は幕府の保護の下,維持・管理には万全の備えがなされていたが,たびたび災害に見舞われた。主なものだけでも寛永3・15年・貞享元年の大火,天和2年の地震など周辺に多大の被害をもたらしたが(旧記・堂社建立記),文化9年大楽院の火災は宝蔵に延焼,神宝・刀剣多数焼失した(近世日光災害史料・社家御番所日記15巻)。明治元年戊辰戦争に際し,旧幕軍約2,000人が日光山に拠り西軍を迎撃しようとしたが,板垣退助・谷干城や日光山側の努力により戦火は免れた。しかしこれより先東照宮御神体が閏4月1日会津を目指して動座。その後山形・仙台などを経て10月29日還座した(社家御番所日記22巻)。明治元年8月日光領は収公され,同4年1月神仏分離が実施され,それまで東照宮を主体とする神仏習合の日光山は二社一寺に分立し,境界が定められた。その後神地から堂塔移転が議せられたが,明治13年旧観保持のため永久据置が決定した(東照宮所蔵文書)。神仏分離以後,一時危機に立ったが,明治6年には別格官幣社に列し,保晃会の設立により援助を得て荒廃を免れた。列格と同時に宮司職が政府から任命されることになったが,おおむね明治期は旧藩主(1~9代)や幕府旧恩の者が多く,旧会津藩主松平容保(5・7代宮司),同家老西郷頼母(禰宜),幕末三身の一人高橋泥舟(権宮司)らが特に著名。明治維新以後グラント米国大統領やヘボン博士ら著名な外国人の参拝も多く,イザベラ・バードの「日本奥地紀行」など数多くの紀行文が残されている。第2次大戦後は宗教法人法に基づく神社として,年間300万人に及ぶ参拝者でにぎわっている。毎年5月17・18日(江戸期は4月16・17日)の例大祭及び10月17日(同9月17日)の秋季祭(臨時祭)に行われる神輿渡御祭は,千人武者行列として広く知られている。これは元和3年神霊を久能山から移した時の行列に,日光山古来の滝尾の神事が加わって成立したもので(大楽院御用日記),鎧武者など53種類1,200人の行列,神橋畔の御旅所では三品立七十五膳の特殊神饌が供えられ,八乙女舞や東遊などが行われる。東照宮の建造物のほとんどは寛永13年の建立で,本殿・石の間・拝殿・陽明門・唐門など8棟が国宝,奥社宝塔・神楽殿・表門など36棟が国重文,回廊の眠猫や神厩舎の三猿の彫刻は特に著名。神宝として伝えられるものは徳川家康の遺品並びに将軍家・大名の奉納の品で,家康在世品である太刀銘助真・同国宗,寛永13年東照宮造替の上棟祭に用いられ甲良宗広が奉納した大工道具箱(本殿付)が国宝,寛永13~17年にかけて家光の命により作成された東照社縁起(真名本紙本墨書3巻・仮名本紙本彩色5巻),家康が関ケ原戦に着用したと伝える南蛮胴具足,渾天儀,小紋地葵付胴服・勝光宗光合作脇差,太刀銘吉房他が国重文。文書類では真名本寛永諸家系図伝186巻(国重文)ほか,徳川家康の官歴に関する位記・宣旨など約300通,寛政重修諸家譜1,530巻,徳川実紀516巻,社家御番所日記323冊等々が伝えられている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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