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野木神社
【のぎじんじゃ】


下都賀郡野木町野木にある神社。旧郷社。祭神は菟道稚郎子命。息長足比売命・誉田別命・宗像3神を配祀する。野木宮と呼ばれた。文政7年7月の野木町野木大明神社由来(小山市史)などによれば,仁徳天皇の時下毛野国造奈良別王が当国に赴任,現社地の西方約800mの台手凾という所に菟道稚郎子命を祀ったのが創祀という。延暦年間坂上田村麻呂が蝦夷征討の帰途参詣し,社殿を造営して現社地に移した(旧県史3)。「吾妻鏡」養和元年閏2月23日条(実際は寿永2年2月のこと)によれば,常陸国志太荘の志田義広(源頼朝伯父)は頼朝打倒をめざして下野に進出,頼朝方の小山朝政の謀略にかかり「野木宮」に誘い出され敗走したが,それは当社のことといわれる。そのため頼朝は寒川郡を斎料として寄進した(野木大明神社由来)。文治2年9月,寒川郡内の当社領のうち田地15町が割かれて「日光山三昧田」に付せられ,建仁3年10月には世上無為の報賽として鶴岡八幡宮・三島大社・日光二荒山神社などとともに神馬が奉納されている(吾妻鏡)。弘安4年の元寇の際,将軍の攘夷祈念の命で,息長足姫命・誉田別命・宗像3神を相殿に奉斎した。寒川郡内の迫間田・寒川・中里・鏡・小袋・井岡・網戸・下河原田の8か村を社領とし,寒川郡の大領大惣社と称したという。永享12年の結城合戦で神官野木常友は戦死し,社領は没収され社殿も破損したが,長禄3年に再興された。元和年間には幕府から15石の社領が寄進され,古河藩主代々の崇敬が篤かったという。文化3年火災のため社殿を焼失したが,藩主土井利厚の努力により再興(旧県史3・野木大明神社由来)。別当は真言宗の満願寺(下野国誌)。満願寺は,名主らが当社別当を依頼するために網戸村慶正寺の僧侶を招いて,寛永2年頃創建されたと考えられる(明暦3年8月10日付野木大明神社別当職取立につき由緒手形/小山市史)。明治5年郷社に列格。例祭は8月4日,12月2日~4日。12月2日夜に神体を仮宮に祀り,3日の夜還御する裸もみ(提灯もみ)と称する神幸のあと,平国神事と呼ばれる鎮火祭がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7043206