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八幡宮
【はちまんぐう】


足利市八幡町にある神社。旧県社。祭神は誉田別命・大帯姫命・姫大神。古く足利荘八幡宮と呼ばれた。下野国内第一の八幡宮として下野国一社八幡宮,一国一社八幡宮とも称したという。社蔵の大永3年8月15日付足利荘八幡宮勧進状には,簗田郡足利荘にあって「天喜年中,源朝臣義家奥州凶徒誅伐時」に勧請したとある(県史中世1)。伝えによれば,天喜3年に源頼義・義家父子は当社付近の大将原に宿営し,現在地に小祠を創建して山城国男山八幡宮を勧請した。康平年間に凱旋して,兵器を施入し報賽したという。その後義家三男義国(足利・新田両氏祖)は,簗田荘荘官として当社東側の現山辺小学校付近に居館したとも伝える。延文2年の「所役勤行目録」によって,富長・富増・手墓3氏の社人と,神宮寺を中心とする円光坊・妙義坊・南林坊・宝乗坊・禅月坊の供僧が,神事・法会に奉仕していたことが知られる(足利市史)。中世には鶴岡八幡宮領になっていたと思われ,永享7年8月27日付の鎌倉御所持氏御教書には「下野国足利庄八幡宮別当職」以下が鶴岡若宮別当尊仲の執務とされている(鎌倉市立図書館所蔵文書/相州古文書4)。年未詳足利荘・佐野荘内鶴岡八幡宮神領注文にも,足利荘内分として八幡宮がみえる(鑁阿寺文書/県史中世1)。先の大永3年勧進状には「永享以来,度々騒乱,神田社領半落官俗手」とあって,室町期には社領・社殿が一時荒廃した。文明8年8月長尾房清は禁制を出し保護を加えている(永倉恵一氏所蔵文書/県史中世1)。別当神宮寺は真言宗に属し,慶長17年8月6日付関東八州真言宗諸寺連判留書案には「野州八幡」の神宮寺とある(醍醐寺文書/県史中世4)。天正19年正月8日付の足利荘八幡宮領検地帳(後欠)には,数百筆にのぼる合計20町以上の田畠が書き上げられている(永倉恵一氏所蔵文書/県史中世1)。元和7年11月には江戸幕府より20石の朱印社領が許されたという(足利市史)。文化11年に現本殿が建造された(県文化財)。建築時の設計図および費用明細書などが現存する。明治の神仏分離で東側に隣接していた神宮寺は廃寺となった。明治5年郷社,同35年県社に列格。境内地内にある古墳時代後期の71基の円墳は八幡山古墳群として県指定史跡。足利荘八幡宮領検地帳は県指定文化財。寛政4年建造の青銅鳥居は,村内氏子ほか足利・梁田・安蘇郡から群馬・埼玉両県に及ぶ寄進者名が刻され市指定文化財。足利荘八幡宮勧進状,所役勤行目録は市指定文化財。樹齢約600年のクロマツは市指定天然記念物。また底を抜いた水柄杓を奉納して癪の平癒を祈願する信仰がさかんである。氏子は祭神または義家がトウモロコシの切株で目を突いたため,古くからそれを作らないともいわれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7043270