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二荒山神社
【ふたあらやまじんじゃ】


宇都宮市馬場通り1丁目にある神社。延喜式内名神大社。旧国幣中社。祭神は豊城入彦命。大物主命・事代主命を配祀する。宇豆宮,宇都宮大明神などと呼ばれた。社伝によれば,崇神天皇第1皇子の豊城入彦命が東国下向の際,大和国三諸山の大物主命を祀ったとも,仁徳天皇朝に下毛野国造に任じられた奈良別王(豊城入彦命4世の孫)が豊城入彦命を現社殿南方約200mの荒尾崎(摂社下之宮社地)に祀ったのが創祀ともいう。のち承和5年,奈良別王の子孫温左麿が現在地の臼が峯と呼ばれる高台に移したと伝える。また室町期には,事代主命を主祭神とする説があった(延喜式神名帳頭註/群書2)。「二荒神」として,承和3年12月従五位上勲四等から正五位下へ,同8年4月に正五位上,嘉祥元年8月に従四位下へ昇叙(続日本後紀)。天安元年11月には「従三位勲四等二荒神」に封戸1烟が充てられており(文徳実録),これ以前に従三位になったことがわかる。その後,貞観元年正月に正三位,同7年に従二位,同11年には正二位へと昇進を続け,その間貞観2年9月には神主が置かれている(三代実録)。天慶3年平将門鎮定に際して正一位が贈られ,押領使藤原秀郷から甲冑や太刀が奉納されたという(文明16年付宇都宮大明神代々奇瑞之事/群書2)。「延喜式」神名帳河内郡条に「二荒山神社〈名神大〉」と見え,下野国では唯一の延喜式内名神大社であった。寛仁元年10月,一条天皇の即位に伴って「下野二荒」に一代一度の大奉幣使が派遣され(左経記),また,「朝野群載」所収の康和5年6月10日付神祇官謹奏には,「二荒山神」に穢の祟りがあったことが記されている。これらは平安期の史料上に表れる「二荒神」「二荒山神社」が当社と日光二荒山神社のいずれに当たるかについては,明治初期を中心として近世から現代まで論争が行われているが,現状では確定することは困難である。平安末期頃からは史料上で「ウツノミヤ」と表記されるようになり,永万元年6月日付「神祇官諸社年貢注文」には下野国に「宇豆宮〈上馬二疋〉」とあり,神祇官に上馬2疋を進納していたことが知られる(平遺3358)。宇都宮の名義には諸説があって明確ではない。一宮の転訛とする説,征討(うつ)宮から転じたという説などがあるが,現在は「現宮」説が最有力。「現宮」説は,御諸別王を現々(うつつ)君の氏祖とする「地名辞書」の解釈などがある。那須与一は屋島の合戦で扇の的を射る際に,「我国の神明日光の権現宇都宮那須のゆぜん大明神」に祈願したと伝えられる(平家物語)。「大日本国一宮記」によれば,当国一宮は事代主命を祭神とする河内郡所在の「二荒山神社」とする(群書2)。古代の神職は下毛野氏であったと伝えるが明確ではない。平安期には猿子(益子)・芳賀両氏があたり,特に芳賀氏は古くから「宇都宮俗別当」を勤めたといわれる(堀田芳賀系図/続群7上)。しかし,前九年の役に際して僧宗円(宇都宮氏始祖)が下野国に下向,戦勝祈祷の功績により宇都宮社務職および下野守護職となった(宇都宮系図/続群6下)。宗円は益子・芳賀両氏と婚姻関係を結ぶことにより在地での勢力を増し(下野国誌所収宇都宮系図/宇都宮市史2),宇都宮氏は代々宇都宮社務職となって従来の俗別当の上に位置するようになっていった。鎌倉期になると源頼朝の崇敬を受け,治承4年芳賀郡久野・大井手の地が灯油料所として寄進され(宇都宮大明神代々奇瑞之事),文治5年7月には奥州藤原氏征討のため下向した頼朝から「宇津宮」に対して戦勝祈願の奉幣がなされ,同年10月19日にも報賽として再び奉幣があった(吾妻鏡)。同時に那須荘内5か郷を生贄狩料所にあて,森田・向田両郷を日御供料所として寄進した(宇都宮大明神代々奇瑞之事)。建仁3年10月には世上無為の報賽として鶴岡八幡宮などの諸社とともに神馬が奉納されている(吾妻鏡)。宗円の子宗綱は宇都宮社務職と日光山別当を兼ねたといわれ(下野国誌所収宇都宮系図),孫の朝綱も鎌倉御家人となり,元暦元年5月には頼朝から宇都宮社務職が安堵されている(吾妻鏡)。以後宇都宮氏は紀清両党(益子氏・芳賀氏)を従え強大化し,政治的支配のために当社を利用するようになった。弘安6年宇都宮景綱は私家法「宇都宮家弘安式条」を定めたが,全文70か条のうち約3分の1が当社および関係寺院の修営と奉仕に関するものである(県史史料編中世4)。一族・被官層支配のため,その権威の背景として当社の祭祀を重視していたことがうかがわれる。例えば,社殿造営は,本・拝殿のみならず「縦雖為末社,不可有緩怠之儀」,祭祀も,「神事の時は,神官等たとえ鎌倉に参住すといえども,差し下らるべきなり」という。また250年後の天文3年3月の「大湯屋結番次第」は神官・社僧が身の穢を落とすために利用した大湯屋の結番次等と大湯屋での禁止事項を定めたもので,その内容は,「宇都宮弘安式条」第25条「大湯屋出仕事」,第26条「宮御堂僧侶,不可浴在家温室事」と全く一致し,それが連綿として守られていたことを示すものである。中世の別当神宮寺は,宇都宮氏菩提寺の尾羽寺(地蔵院,芳賀郡益子(ましこ)町上大羽)とともに「累祖之氏寺」といわれた。当社に12人,神宮寺に5人の供僧が勤仕していたが,宇都宮氏の支配下に属し,厳しい戒律が定められていた(宇都宮弘安式条)。一方で,寛喜元年7月に藤原定家・家隆によって「宇都宮神宮寺障子歌」10首が奉納され(明月記,新和歌集/群書10),蓮生(宇都宮頼綱)の師善恵上人が大和国当麻寺の曼荼羅を写して奉納するなど(当麻曼荼羅疏/大日料5‐23),その文化的水準は高かった。別当による祭祀は,「続古事談」に狩人たちが鹿の頭を供祭物にするという話,「沙石集」にも狩を宗として鹿や鳥を手向けることを記すが,一切経会・三十講・夏安居・験競べなど仏事も混入している(宇都宮弘安式条)。特に験競べでは,山伏が効験を競い,当社の「旧例也」とされている点が注目される(宇都宮市史3)。神宮寺は室町期には慈心院と称し,社頭の東,小田町にあったが(下野国誌),永正年間には宇都宮忠綱が慈心院に対して当社の管理を「開山以来旨」に任せて委ねている(中里文書/大日料9‐4,宇都宮志料拾遺/大日料9‐7)。社殿はほぼ20年に1度は造営することになっていたらしく,永享11年・長禄2年・文明12年・明応7年・永正5年・天文7年・天正2年などの造営が知られ(造宮日記・慈心院造宮之日記・棟札/宇都宮市史2),それらの費用の配分方法も規定されていた(宇都宮弘安式条)。造営の際には能・猿楽・田楽・大衆舞などが演じられ,領内寺院・日光山などから演者がでている(造宮日記・慈心院造宮之日記)。天正年間に小田原北条氏が北関東に進攻し,天正17年北条氏尚が宇都宮国綱を攻めた時に社殿を焼失(二荒山神社年表紀事略/宇都宮市史2),慶長2年宇都宮氏の廃絶で社領のことごとくが没収され,慈心院も廃寺となった。しかし同7年11月には徳川家康から河内郡内に朱印社領1,500石が寄進され,歴代将軍から安堵された(寛文朱印留)。その内訳は,造宮祭礼料が1,075石,残りの425石が神主禰宜供僧役人以下に配当された。「旧高旧領」には「宇都宮明神社領」として,高松・堀米・関沢・瓦谷・逆面・叶谷の6か村があてられている。慶長9年6月幕命で社殿再建が開始され,永楽銭488貫479文,米323石余の経費をかけて翌10年完成した(宇都宮大明神御建立御勘定目録/大日料12‐2)。この造営時の銘文のある擬宝珠が現存する(市文化財)。元和7年藩主本多正純が城郭整備のため町割りを実施,境内敷地は二分割されて現在の大通りが出現し,本社と下之宮は分離され原形を失ってしまった。寛永13年日光東照宮の大造替が竣工すると,代々の将軍の日光社参の要衝として注目され,そのためか社殿の修造がたびたび行われ,多額の費用がかけられている(二荒山神社年表紀事略)。安永2年の上町大火で家康寄進の社殿を焼失したが,寛政2年再建。天保3年にも市中大火により社殿を焼失したが,同14年将軍家慶日光社参の帰途参拝し,白銀100枚を寄進,弘化年間再建された。近世には供僧寺として本宮寺・神楽寺・大日院など6寺院があったが,高は計165石で,神主・社家7家は819石(宇都宮市史6)。明治元年戊辰戦争の戦火で社殿を焼失,同10年に仮殿が完成し,現在に及んでいる。これより先,明治4年国幣中社に列したが,日光二荒山神社との間に延喜式内社認定問題が起き,同6年2月当社は式外社とされ県社に降格。以後祠官・氏子惣代によって式内社認定運動が熱心に進められ,同12年5月式内外未定社とされ,同16年5月国幣中社に復した。例祭(秋山祭)は10月21日。例祭の付祭(菊水祭)は10月28・29日で,杉の葉で神官が身の穢を祓う儀式(杉の葉神事)や流鏑馬神事が行われ,最もにぎわう。1月15日の春渡祭,12月15日の冬渡祭は「おたりや祭」と呼ばれ,承和5年に下之宮から現在地に遷座した時の祭礼といわれる。神輿渡御などが催されるほか,「お焚き上げ」(どんど焼き)の行事が付属しており,参加者は火難から免れるという信仰がある。5月15日は田舞祭。市内関堀町堀米の保存会の手で伝承されてきたもので,かつては式年遷宮の際に奉納されたといわれる。当県に現存する唯一の豊作を祈る田楽祭で,春渡祭・冬渡祭にも行われる。数度の火災で社宝は少ないが,正徳2年戸田能登守藤原忠真(戸田山城守忠真か)奉納の太刀は県文化財。藤原秀郷奉納と伝える三十八間星兜,建治3年2月在銘の初期狛犬の遺品である鉄製狛犬は国重文。




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「角川日本地名大辞典」
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