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二荒山神社
【ふたらさんじんじゃ】


日光市山内にある神社。延喜式内名神大社。旧国幣中社。祭神は大己貴命・后神田心姫命・御子神味耜高彦根命。日光三社大権現と称する。下野国一宮とも伝えられ,現在日光市の総氏神。本社(新宮)のほかに中宮祠,奥宮(男体山頂にある),別宮の滝尾神社・本宮神社,摂社の若子神社などがあり,また女峰・太郎・大真名子・小真名子・赤薙・白根などの各山頂には境外諸山末社が祀られている。当社は二荒山(男体山)を主峰とする日光連山に対する古代山岳信仰にその起源を有すると考えられ,二荒山の名も男体山と女峰の二荒(現)神をフタアラと呼んだのに由来するといわれる。二荒を音読したのがのちに日光の名を生んだと考えられ,すでに平安期には二荒・日光両様の書き方が通用していた(大治4年大般若経奥書/日光市史)。昭和34年から実施された男体山頂遺跡の発掘調査によって,奈良期から江戸期にわたるおびただしい数の祭祀遺物が発見され,古代以来の全国屈指の山岳祭祀の場であることが証明された(出土品は国重文)。当社の創祀は,二荒山登頂を志した下野国芳賀郡の勝道上人が,天平神護2年二荒山麓に地主神を祀って本宮を創祀し,その傍に神宮寺(四本竜寺)を建立したのに始まる。勝道は天応2年に男体山頂を極め,山頂に奥宮を祀り,中禅寺湖畔に下って中宮祠を建立して傍に中禅寺を建てたという(補陀洛山建立修行日記/続群28上,堂社建立記)。弘法大師空海が撰文した弘仁5年の「沙門勝道歴山水瑩玄珠碑并序」によれば(性霊集),勝道は神護景雲元年4月に「補陀洛山」に登頂しようとしたが失敗し,天応2年3月に「奉為諸神祇,写経図仏」して誓願し,ようやく登頂することができたとある。桓武天皇は勝道を上野講師に任じ,大同2年には補陀洛山上で祈雨の祈祷をして下野国の旱害を救ったとある。弘法大師空海は弘仁11年に来山し,滝尾の地から女峰山を拝して滝尾権現の社殿を建立し,また寂光権現(摂社若子神社,日光市寂光)も創建した(日光山滝尾建立草創日記/続群28上,堂社建立記/日光市史)。現在の本社である新宮は,嘉祥3年恒例山麓(今の東照宮陽明門付近)に3神を合わせ祀ったのに始まる。同じころ慈覚大師円仁が来山して滝尾社の地に三仏堂を建立したと伝えられる(円仁和尚入当山記)。なお当社の神宮寺は満願寺と称し,中宮祠には中禅寺,滝の山麓には三仏堂,本宮には四本竜寺がそれぞれ並立していた。当社は早くから中央にも知られ「続日本後紀」承和3年12月23日条に「従五位上勲四等二荒神」に正五位下を授くと見え,以後承和8年4月15日に正五位上,嘉祥元年8月28日に従四位下となる(続後紀)。「文徳実録」天安元年11月17日条には「従三位勲四等二荒神,充封戸一烟」とあるから,これ以前には従三位となっていた。さらに貞観元年正月27日に正三位,同7年12月31日に従二位となり,同11年2月28日には正二位に昇格した(三代実録)。「延喜式」神名帳河内郡条に「二荒山神社〈名神大〉」とあるが,河内郡ゆえにこれを先の六国史の神階記事も含めて宇都宮二荒山神社のこととする説もある。しかし当時の郡境が明らかでなく,他の資史料から見てもこれは当社と見る方が蓋然性が高い(日光市史)。「三代実録」貞観2年9月19日条には,当社に初めて神主を置くとある。旧社家の伝えには「貞観二年九月十九日,詔二荒神社,以大中臣氏清真,置神主」とある(堂社建立記)。清真は勝道の外孫に当たり,その子5人がそれぞれ一家を起こして新宮と滝尾社の社家として代々奉仕したという。これが近世初頭まで続いた大森氏5家である。一方本宮の社家はやはり近世初頭まで小野氏であったが,「二荒山縁起」に見える説話で,二荒山神に加勢して,上野国赤城明神の化した大ムカデを撃退した猟師小野猿丸は,小野氏の始祖とされる(寺社縁起/思想大系)。「左経記」寛仁元年10月2日条に後一条天皇即位の一代一度大神宝使派遣の対象社として当社の名が見える。「日光山志」によれば,永長元年・保延元年・久寿2年・永暦2年の中宮祠棟札写があった。また仁平3年8月には新宮の社殿を現在地に移したといわれる(当山秘所・別当次第/日光市史)。保延7年に作られた藤原敦光の「中禅寺私記」は平安末期の姿を伝えるものとして貴重だが,それによれば,このころは中宮祠と中禅寺がかなり栄えていたことが知られる(群書24)。日光山内では早くから経典類の書写・版行が行われていたらしく,大治4年銘の「二荒山一切経」(大般若経)が市内清滝寺に伝えられている。武家の台頭とともに当社は那須氏・宇都宮氏など地方豪族の尊崇を受けるようになるが,その一例として那須与一が屋島の合戦の折,扇の的を射るに当たり生国の神「日光権現」ほかに祈念したことは良く知られる(平家物語)。治承年間には,豪族出身の隆宣と禅雲の間に座主職をめぐる内部抗争があり,両人の一族である那須・宇都宮・大方・小山各氏を巻き込んで5か年に及ぶ争乱となった。このとき四本竜寺をはじめ,多くの寺院・社殿が焼亡したといわれる(日光市史)。源氏と日光山との関係は早くから密接で,頼朝の父義朝は保元元年12月19日「造日光山功」によって下野守に重任され(兵範記),頼朝もたびたび当社に祈願,報賽を行っている(日光山満願寺祈請感応条々/日光市史)。「吾妻鏡」文治2年9月30日条に,頼朝は下野国寒河郡内の田地15町を「日光山三昧田」として寄進した。承元4年ごろに座主となった弁覚は日光山中興といわれ,新宮・中禅寺・滝尾社などの造営をはじめ山内社寺を整備した。先に衰亡した四本竜寺の代わりに光明院を建てた。以後光明院のもとに衆徒36坊,支坊300余が統轄された。日光山に熊野系の修験を導入したのも弁覚と伝えられるが(両峰相承略伝記/輪王寺所蔵),それが本格的に展開するのは鎌倉後期~末期とされる。新宮(男体山)・滝尾(女峰山)・本宮(太郎山)が日光三社(所)として体系づけられ,これが修験道の礼拝対象となって板絵額がさかんに作られた(正和2年の板絵が現存する最古のもの)。修験者の道場である宿は鎌倉末ごろ日光山周辺にぞくぞくと設置された(日光市史)。日光山の峰修行は,3月~4月の春峰,5月~7月の夏峰,12月に行われる冬峰があり,これを三峰と称した。8月の秋峰は女峰・大真名子・小真名子・太郎・男体各山頂に登拝するもので,特に五禅頂と呼ばれる。これらの入峰修行や各種儀礼が整備されたのもこの頃といわれ,それとともに日光山には各国各地からの修験者が集まって,関東における一大霊場となった。応永年間に光明院の座主が廃絶し,権別当職にあった下野の土豪壬生氏出身の昌瑜が名実ともに山内を管掌することとなった。これ以後日光山は壬生氏と特に深い関係を持つようになる。聖護院門跡道興准后の「廻国雑記」によれば,道興は文明18年9月に日光山に到り,滝尾・中禅寺・座禅院を訪れている(群書18)。やや遅れて永正6年には連歌師宗長も来山し,紀行文「東路のつと」には滝尾の別所から山内を見わたすと「院々僧坊およそ五百坊にも余りぬらん」とある。また,宮増源三という猿楽者がやってきて,滝尾で夜のふけるまで歌い舞ったという(同前)。当山では鎌倉期以来,三社権現をたたえる「補陀洛霊瑞」などの歌謡がさかんに作られた(宴曲集)。現在も多数の猿楽面(能面)・神楽面が伝来していることから,山内では各種芸能がたびたび催されて各地から連歌師・猿楽者をはじめ多くの芸能者が招かれていたことがわかる。中世期の社領は,あまり明確でないが「日光山往古社領六拾六郷」と呼ばれ,足尾郷など5郷のほかに,桓武・仁明両天皇および頼朝の寄進(寒河郡内15町)があったという(日光山常行三昧堂大過去帳/宇都宮市史2,堂社建立記)。その範囲は都賀・寒川・河内の3郡におよぶ広大なもので,神事祭礼頭・寺領・衆徒・部屋坊などに分割支配されていた(日光市史)。戦国期に当山の実権を握っていた神領政所職壬生義雄は,天正年間に小田原北条氏にくみしたため,豊臣秀吉によって社領などを没収された。天正18年9月20日秀吉は「当山寺屋敷並門前,足尾村,神主・社人・寺人屋敷等」を残して,他を取りあげている(豊臣秀吉朱印状/日光市史)。このため当山は著しく衰退する。その後,文禄2年に中禅寺拝殿・瑞籬など,慶長2年に本宮の別所,同12年に中禅寺の各寺社殿などの一部が修理造営された(日光市史)。慶長18年,徳川家康は信任していた天海を日光山貫主にすえ,日光山の再興に意を尽くした。元和3年東照宮が,当社地内に鎮座したことによって,当社も幕府の管理と手厚い保護を受けることとなった。元和5年徳川秀忠は新宮本社の本殿・拝殿を造営,寛永13年家光は東照宮の大造替の際に神橋を架け替えて朱塗りとし,将軍の社参および神事以外の通行を止め,以後仮橋を一般の通行に供した。神橋は,往古勝道上人の開山に際して深沙大王がこれを守護し,大谷川に蛇の橋を架けて上人を渡したという伝説の橋で,山菅の橋と呼ばれた(国重文)。正保3年に滝尾神社,貞享2年に本宮,元禄12年に中宮祠社殿が幕府の手で造替された。現在当社に付属する社殿のほとんどが国重文に指定されている。元和3年に,東照宮鎮座にともなって天海は大森氏5家と小野氏1家の社家を召出して東照宮の神職を兼ねさせた。社家のほか,当社の奉仕者は宮仕10人,神人76人,八乙女8人があった(日光市史)。徳川家康は慶長14年3月5日,秀吉と同様社領を安堵したが(日光山御判物之写/日光市史),東照宮の鎮座にともない秀忠は,元和6年3月16日足尾村一円・今市村700石のほか,草久村397石余,久加村の内320石余の都合1,400石を日光山に寄進した。さらに東照宮領として,5,000石を寄進。以後,家光の時これを一体化して東照宮領7,000石とし大猷院廟が山内に建てられるにおよんで,明暦元年には日光神領あわせて1万3,600石となった。その後,実高約2万5,000石に達し,当社の神事料などもこの中でまかなわれた(同前)。明治元年神仏分離令で,同4年二荒山神社・東照宮・輪王寺の二社一寺に分離。明治6年国幣中社に列格。第2次大戦後は宗教法人二荒山神社となり,現在氏子約2万5,000人,講社崇敬者約3万人。祭儀は,1月4日「日光山縁起」で知られる小野猿丸の故事にちなむ武射祭(蟇目式神事とも言う)が中宮祠で行われる。例祭は古くは神宮会と称し,6月に実施されたが,弘仁11年から3月3日に行うことになり,三月会・弥生祭と称され(満願寺三月会日記/続群28上),明治8年からは現在の4月17日となった。この日は日光東西15か町から花屋台が繰り出し,日光に春を告げる祭りとして著名。8月1~7日には古来の男体禅頂に起源を持つ男体山登拝祭が行われる。同2日には中禅寺湖から男体山を拝する湖上祭(古く船禅頂・浜禅頂と呼ばれた)が行われる。神宝として伝えられる刀剣類170口のうち小太刀銘来国俊・大太刀銘備州長船倫光が国宝,御神刀と称する大太刀3口(弥々切丸・瀬登の太刀・柏太刀),太刀銘遠近など14口が国重文。正応5年の刻銘を有し,無数の刀傷があることから「化灯籠」と呼ばれる銅灯籠,弥生祭祭礼具として金銅製神輿(康応元年製作)3基・付属の薙刀3口・神馬用鞍3具,日光市湯元の温泉神社に納められた鋳銅製厨子,滝尾神社に奉納された「後撰和歌集」上巻などが国重文に指定されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7043552