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赤城神社
【あかぎじんじゃ】


勢多郡宮城村三夜沢にある神社。延喜式内社という。旧県社。祭神は大己貴命・豊城入彦命。崇神天皇朝の勧請と伝えられるが,古くは赤城山小沼から流れ出る粕川の水源神と黒檜山を中心とした雷信仰が結びついて赤城の神が形成され,赤城神社の西北方の尾根上に櫃石(ひついし)があり,古代祭祀遺跡があるので,ここで祀られたのであろう。また,三夜沢の東方約3kmの所に元三夜沢という地名があり,はじめはここに社が置かれたとも考えられる。承和6年に従五位下に叙せられ(続日本後紀),貞観9年6月に正五位下,同11年12月に正五位上,同16年3月に従四位下,元慶4年5月に従四位上に昇叙した(三代実録)。「延喜式神名帳」の勢多郡1座に「赤城神社〈名神大〉」とある。上野国交替実録帳には正一位赤城明神社とあり,7年に一度造作するが万寿4年に新修造した(県史資料編4)。赤木文庫本「神道集」の上野国九ケ所大明神事に「二宮ヲハ赤城ノ大明神ト申,惣シテ三所御在ス」,大沼は本地千手観音,小沼は本地虚空蔵菩薩,山頂は本地地蔵菩薩という。源実朝の「金槐和歌集」に「上つ毛のせたの赤城の神やしろ大和にいかで跡をたれけむ」と詠っており,鎌倉期すでに本地垂迹説があったことがわかる。応永年間頃から東宮と西宮の2社があり,東宮は地蔵菩薩を,西宮は虚空蔵菩薩を本地仏としていた。永禄3年9月27日上杉憲政は当社を祈願所とし(奈良原文書/県史資料編7),翌4年10月2日に新居長重は御穀免大足之田3反を寄進した(同前)。永禄5年と推定される3月9日の上杉輝虎書状で赤城山三夜沢を守護不入とした(同前)。北条高広も宮中での狼藉を禁じ,永禄9年11月15日に9貫200文の地を寄進した(同前)。永禄12年の某制札には富士浅間大菩薩が赤城山の小路之岳へ飛来したとの神託があり,参詣の道者への狼藉を禁じている(同前)。元亀3年12月13日の某制札でも宮中での博奕・双六を禁止し,同日北条高広は三夜沢一山宮中の諸公事以下を神官奈良原と宮内少輔に委ね,守護不入を認め,さらに天正5年9月16日の判物では社殿の上葺奉加のため大胡郷での勧進を認めている(同前)。これは同年9月に高広の嫡子景広が厩橋郷での奉加勧進を認めているので,高広は厩橋城を景広に譲り自らは大胡城に退去したものと思われる。翌6年3月7日には安中久繁・木戸休波が三夜沢大明神に立願し,神馬や社領寄進を約している(同前)。戦国武将の信仰を集め,所領も安堵されたが,江戸期に入り慶安2年に三夜沢村内で50石の朱印高を与えられた(寛文朱印留)。前橋藩主も代々崇敬し,また三夜沢講の代参でにぎわった。明治12年県社に列格。本殿および中門は明治2年に再建された復古神道の代表的な神明造で県重文。金山城主由良成繁寄進の本殿内宮殿は,室町期の宝形造でこれも県重文。赤城神社文書は社家の奈良原家に伝わったもので,永禄3年~慶長18年までの35通と朱印状10通は県重文。二之宮赤城神社との間に年2回行われる御神幸祭や筒粥神事などは有名。例祭には神代神楽が奉納される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7044274