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足利荘
【あしかがのしょう】


旧国名:下野

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。下野(しもつけ)国足利郡・安蘇郡・梁田(やなだ)郡のうち。東は旗川を限り,西は下野・上野(こうずけ)国境を限り,南は渡良瀬川・矢場川(旧渡良瀬川)を限り,北は赤雪山・仙人岳などの峰や尾根を境とした地域に広がる荘園で(近代足利市史),郡馬県域では現在の館林市域に含まれる木戸郷,足次郷,芳志塚があった。これは,渡良瀬川の変流によるものである。渡良瀬川はかつては矢場川の河道を流れていたが,中世に至って現在の河道に変流し,矢場川も江戸期に現在の河道に改修され,その時矢場川の南側になった前記3か所が上野国に編入されている。初見は平治元年9月29日の太政官牒案(安楽寿院古文書/栃木県史史料編中世4)で,安楽寿院領の1つとして「壱処字足利庄 在下野国」とある。当荘は源義家が義国へ伝領した足利郡内の開発私領を鳥羽院の御願寺である安楽寿院に寄進することによって立券された。時に康治元年10月日のことである(同前)。その後,当荘は上皇の寵愛を受けていた美福門院(得子)からその娘八条院(璋子)に伝わったが,八条院の御所が反平氏の拠点しかも以仁王が女院の猶子であったことは,平氏打倒の計画に足利氏が積極的に加わっていく有力な原因となった。源姓足利氏の発祥地,すなわち最初の当荘は「五閑」あるいは「五ケ」と称されていた現在の足利市の中心市街地,すなわち伊勢町から通1~7丁目を経て緑町1~2丁目にかけての地域で,ここが平安末期における義国による開発地であろうとする考えがある。渡良瀬川水系の洪水によって荒廃していたこの地域の条里制耕地を再開発し,広大な私領を形成し,これを寄進して初期の当荘が成立したというものである(近代足利市史)。久寿2年に義国は卒去し,その子義康が家督を継いだ。翌保元元年に保元の乱が起こり,義康は源義朝とともに後白河天皇方に属して軍功があり,義康は昇殿を許され検非違使に任ぜられた(尊卑分脈/国史大系,兵範記/大成)。しかし,義康は保元2年に卒去し,幼少の義清・義兼の後見役として義国の後家尼蓮妙が遺領を引き継ぎ(近代足利市史1),一時,源姓足利氏の苦難の時代となるが,以降足利荘は義兼―義氏―泰氏―頼氏と伝領された(安楽寿院古文書/栃木県史史料編中世4)。当初の当荘は,田98町7反180歩・畠106町2反60歩で,国絹71疋4丈,油5石代,四丈白布200端が納入されていた(同前)。源頼朝の開幕に伴い足利義兼は数々の軍功をあげ,有力御家人に列せられるが,後裔の尊氏に至り京都に室町幕府が開かれると,当荘は足利氏発祥の地として重んじられた。すなわち,当荘は幕府の御料所として管理され,本来の当荘と簗田御厨は「御荘・御厨」として一まとめに「足利庄」と呼称されるにいたった(近代足利市史)。そのため,室町期には,荘域が足利郡・梁田郡・安蘇郡の一部を加えた広大なものとなっていく。しかし,荘内の土地所有関係は荘内最大の領主である鑁阿寺・鶏足寺をはじめとする寺社,鎌倉にある寺社,荘内外の武士の所領,御料所(狭義での)とかなり複雑であった。そして,当荘全体の支配権は幕府の政所が掌握していた。幕府は最初その支配を鎌倉府に任せていたが,鎌倉公方持氏の代になると幕府・鎌倉間の関係が円滑さを欠くようになり,足利荘の代官も幕府の管領の被官のなかから任命されるようになった(満済准后日記応永31年7月19日条,同年7月23日条,同年7月24日条など/続群補遺)。応永25年9月16日に香川帯刀左衛門尉元景は,鑁阿寺領に対する諸役免除を許している(鑁阿寺文書/栃木県史史料編中世1)。香川氏は管領細川満元の家臣であった関係で代官として当荘へ派遣されていたのであり,応永28年8月,畠山満家が管領となり,畠山氏家臣の神保出雲守慶久が代官として当荘に入部し,応永29年5月諸役免除の許可を出している(同前)。やがて,この制は崩れ,鎌倉長尾氏の長尾実景の子景人は当荘の代官職に補任され,文正元年11月15日,当荘勧農のため入部する(長林寺所蔵長尾系図/近代足利市史3)。これより先,寛正6年8月20日,景人は幕府政所の役人である蜷川親元の邸宅へ使者をたて,当荘代官職に補せられんことを請願している(親元日記/続大成)。景人の父実景は足利成氏と対立し,享徳3年12月主家上杉憲忠とともに討死しており,景人は上杉家の重臣として転戦した功績を理由として主張したものと思われる。こうして長尾氏が当荘の代官職を世襲するようになり,やがて当荘の領主として支配するようになっていった。下って天正18年3月豊臣秀吉は関東平定の大軍を小田原に進めたので,北条氏政・氏照父子はこれに応じ関東各地の諸将に檄を飛ばした。足利城主長尾顕長は兄の上州新田金山城主由良国繁とともに小田原に籠城し,その間に足利城は前田利家の軍に攻められ落城した(栃木県の歴史)。同年7月に至り小田原城が落ち,当荘域も秀吉の制圧下に置かれていく。「足利庄」と見える最後の事例は永禄12年閏5月15日の長尾景長安堵状(木村文書/栃木県史史料編中世1)である。鎌倉・室町期の史料に見える荘内の地名は,小曽根郷・田島郷・粟谷郷・国府野・加子郷・赤見駒場郷・栗崎窪田郷・寺岡郷・八日町・鵤木(いかるぎ)郷・稲岡郷・泉・小俣・八椚・荒萩郷・生河郷・大窪郷・葉鹿・葉苅郷・朝倉郷・借宿郷・県郷・山河郷・町・河崎郷・大沼田・岩井郷・渋垂郷・西庭郷・東利保郷・五百部(いよべ)郷・山下郷・名草郷(以上栃木県足利市内),高橋郷・村上・涌釜郷(以上栃木県佐野市内),山形郷(栃木県田沼町内),木戸郷・足次郷・芳次塚(以上館林市内)などであり,荘域は現在の足利市全域と田沼町・佐野市の一部。ならびに館林市の一部の地域に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7044340