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一之宮貫前神社
【いちのみやぬきさきじんじゃ】


富岡市一ノ宮にある神社。延喜式内社。旧国幣中社。上野(こうずけ)国一宮。祭神は経津主神・姫大神。一宮様・貫前神社と通称する。赤木文庫本「神道集」の上野国一宮事に抜鉾大明神は安閑天皇の代に天竺から来て,上野と信濃の境にある笹岡山に鉾を立てて御座したという。この神は女神で笹岡山に船で来り,山の峰に船を伏せて水を貯え,火の雨が降る時はこの水で消すべしと誓った。俗体は弥勒菩薩という。また,赤城大明神が抜鉾大明神に一宮を譲ったといい,機織の神とされる。当社は鏑(かぶら)川の左岸に位置するが,鏑川は笹岡山(荒船山)を水源とし沃地を形成して烏川に合流する。鏑川の谷には古くから渡来人が居住していたことが知られる。仁徳天皇の代,上毛野君が征新羅将軍として四邑の民を虜として上野に居住させたと伝え,彼らは吉井連の姓を賜ったという。渡来人は水源の荒船山を神とし,小船神社を前宮として貫前の丘に祀った。また貫前の丘の北は鍛冶にかかわる磯部氏が居住し,武器製造の職業集団として布都御魂剣を神体として経津主神を祀ったと考えられる。本来,抜鉾・貫前は2神2社であったが,鎮座地が近いために1社と考えられるようになった。平安期の大同元年牒の神事諸家封戸に「上野抜鋒神二戸」とあり(新抄格勅符抄),承和6年6月の神階授与にも抜鉾神と見える(続日本後紀)。しかし貞観元年正月の従四位下で貫前神,同9年6月の従四位上で貫前神とあり,以後同18年4月に正四位下,元慶3年閏10月に正四位上,翌4年5月に従三位となり(三代実録),寛平3年8月に正三位(日本紀略),延喜16年正月に従二位となるが(扶桑略記),これらはすべて貫前神と記されている。「延喜式神名帳」には甘楽郡2座のうちで「貫前神社〈名神大〉」とある。しかし「上野国神名帳」に正一位抜鋒大明神(総社神社蔵/県史資料編6),長元元年の上野国交替実録帳に抜鉾大明神社(県史資料編4),康和2年4月13日の剣1腰を奉献した時には抜鋒社とあるなど(本朝続文粋),抜鋒・貫前の両者が用いられている。その背景には両者を崇拝する勢力の強さの変化が考えられる。以後当社は上野国一宮あるいは抜鋒大明神と称されることが多い。元寇では正応5年10月5日に異国降伏の祈祷を命じられ(東寺百合文書/県史資料編6),関東祈祷寺でもあった(金沢文庫文書/同前)。康暦2年閏3月18日には一宮法楽の一切経が書写された(浜名徳永氏所蔵/同前)。文明2年2月4日の磯部兼吉一宮神宝送状写には鏡5面のほか15種類が書き上げられている(小幡洋資氏所蔵文書/県史資料編7)。天文23年10月6日に小田原北条氏は一宮修理として漆窪長尾源六郎一跡内を寄進し(同前),永禄6年12月24日には武田氏が造営のため信濃国伊那郡からの板20駄の過書を出している(貫前神社文書/同前)。翌年正月にも造営番匠の粮物の過書を出し(同前),年未詳9月28日の武田信玄書状で国内錯乱にあっても修補をとげる決意をのべ(同前),永禄10年10月5日の武田家朱印状で信濃国更級・埴科・佐久・小県4郡に家別5合ずつの籾を出させて造替を進めるようにした(同前)。天正2年8月14日には吾妻谷を除く西上州から家別に5合ずつの籾を出させるなど(大坪文書/同前),武田氏は当社造替に尽力している。天正7年2月8日の一宮神事役他指出注文に年75度の祭礼があり,神事役41貫文,料所恩地329貫文,ほかに夫免・無年貢地50貫文があった(小幡文書/同前)。武田勝頼も当社に武運長久を祈り太刀1腰を奉納し,造替は先例に任せて勧進すべきことを申し送っている(尾崎文書・貫前神社文書/同前)。次いで小田原北条氏も天正10年6月29日に禁制を出し(松井文書/同前),遷宮の際の狼藉は重科に処すべき高札を出して保護し,同12年正月25日には一宮祭に御用代物500文を代々を出すことにした(貫前神社文書/同前)。天正19年11月には徳川家康が一宮村内で176石余の寺領を給し,のち朱印寺領となる(寛文朱印留)。現在の本殿・拝殿・楼門は寛永12年に徳川家光が再建したもので国重文。社宝の鏡は134面あり,うち竹虎文鏡・梅雀文鏡・白銅月宮鑑は国重文。特殊神事の鹿占習俗は県無形民俗文化財で,全国でも例の少ない貴重なもの。式年遷宮は万寿2年以前から行われ,古くは30年ごとであったが,その後7年となり,現在は13年ごとの申年に行われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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