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岡登用水
【おかのぼりようすい】


岡上用水とも書く。県東部,大間々扇状地扇央部を灌漑する用水。新田郡笠懸町・藪塚本町,および桐生市南部と太田市北部に及ぶ。近世初頭までは笠懸野と呼ばれる荒野の新田開発のために開削された用水で,代官岡上次郎兵衛景能により寛文4年に着工され,同12年に完成した。笠懸野用水とも呼ばれ,取水口は渡良瀬川右岸の山田郡蕪町村(現在の桐生市相生町)と推定され,幹線水路は笠懸野の最上部をめざして南東に流れ,阿左美村竹沢の三俣(現在の笠懸町)で分水された。三俣分水までは約4.5kmで,深さ3m前後,勾配1,000分の1程度で開削された。西流する水路は琴平山(196m)北麓を通って鹿の川沼に入り,鹿田山(231m)南麓で銅山街道に沿って南流するようになり,灌漑用水と宿場用水を兼ねた。一方,東流する水路は約1.7kmで阿左美沼に入り,八王子丘陵の西麓を南へ約8km流れて新田堀に注いだ。渡良瀬川の水利権は下流の待堰・矢場堰にあったため,用水の取水は9月から翌年の3月までに制限された。加えて,洪積台地のため水の浸透が著しく,溜池の貯水も不安定で,扇端部の湧水を多くし,下流の耕地を泥沼化してしまった。その結果用水は廃渠となり,笠懸野の農業開発は失敗に終わった。その180年後の安政3年に,山田郡下新田村と天王宿村(現在の桐生市相生町)から幕府に用水の復興願いが出された。待堰19か村,矢場堰96か村,三栗谷堰12か村,借宿堰2か村との取水条件(4堰の用水不足時には取水しない。余水は広沢川に流し2か村以外使用しない。取水方法は4堰の指図に従う)が取り交わされ,文久2年から用水約4kmが灌漑用水として利用されるようになった。明治5年には阿左美村・鹿田村(以上現在の笠懸町)・藪塚村・西野村(以上現在の藪塚本町)・西長岡村・菅塩村・成塚村(以上現在の太田市)から用水全域の復興が願い出され,下流4堰の都合で堰を切り払っても異議申し立てないという条件で許可された。同年に高津戸村・大間々村(以上現在の山田郡大間々町)の2か所に新たな取水口を設ける工事が開始され,総工費4,730円で同6年に完成した。その後,取水口は明治11年大間々町川窪に,同36年隧道方式となって大間々町川久保などに変化したが,大間々扇状地の灌漑用水としての機能を十分に果たすようになった。昭和26年に岡登堰土地改良区が組織され,同27年には大間々発電所の放水路から取水するようになり,用水の灌漑受益地は拡大した。さらに,昭和46年から開始された国営渡良瀬川沿岸農業水利事業により,大間々頭首工が大間々町高津戸に建設され,総工費6億2,500万円で同59年に竣工した。これにより年間1万9,177m(^3)の水が安定供給されるとともに,昭和56年までに整備された用水路に通水され,岡登堰土地改良区約320ha,阿左美沼土地改良区約20ha,太田市西長岡・菅塩地区約78haの水田を灌漑し,農業生産性の向上に貢献した。藪塚台地約860haも畑地灌漑され,関東地方屈指の野菜生産地域が形成されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7044803