上高尾
【かみたかお】

旧国名:上野
地内を東流する鏑(かぶら)川支流星川の中流域に位置する。南と北は山林,東は平地となっている。地名の高尾については,承和2年山城国高尾山神護寺の僧真済が,関東諸国で一切経を写し鎮護国家を祈祷した折に,当地に庵を営んで写経に従事したことにちなむと伝えている。また弓削道鏡が下野薬師寺に下向の際,この地に薬師如来を勧請,天平庵を建立したということから,弓削荘小野郷と称したともいう。遺跡は上高尾地区に縄文前期の背戸谷(せどやつ)遺跡,同中期の上の山遺跡,字中谷戸(なかがいと)の西南方一帯に古墳時代の土師器片が分布する包蔵地があり,また城山丘陵北斜面に縄文土器片が分布する字西日向から室町期の経筒が発見されている。蓋・底ともにかぶせ型,銅版を巻いた円筒を鋲で止めた様式で,「(種子)十羅刹女 三十番神 奉納頓写如法経六十六部之内 上野甘楽郡高尾村 法願寺法印叡
大永五天〈乙酉〉今月吉日 敬白」と筒身に陰刻,外容器は天引砂岩製,身の正面に「大永五年乙酉三月□日」と刻す。内部は身・蓋ともに2段にくり抜いている(群馬県立博物館報8)。経筒発見地の西北の山腹に法願寺の地名が残る。なお,暦応3年9月13日の和田盛行・小幡氏泰連署打渡状,同年10月22日の和田基業請文,同4年6月29日の将軍足利尊氏御教書の3通は「上野国高尾村地頭職」に関するもので,もと高尾氏の知行であったが,瀬下氏に宛行われ,さらに熊谷直経に宛行われたことが知られる(熊谷家文書/県史資料編6)。
【上高尾村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【上高尾(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7045041 |





