川中温泉
【かわなかおんせん】

吾妻(あがつま)郡吾妻町の北西部大字松谷にある温泉。吾妻川の支流雁ケ沢川の中から湧出したので,川中温泉と呼ばれるようになった。泉質は含石膏硫化水素泉で無色透明,アルカリ性を呈する(県薬務課の資料による)。国道145号から沢沿いに1kmほど上った所にあり,宿は1軒だけで,宿泊定員約50人。泉温36℃のために,湯治以外は加熱して利用している。皮膚病や火傷をはじめ神経痛・胃腸病・リウマチ・痛風・眼病・婦人病など万病に効能があるといわれる。中世以前から利用されていたと伝えられる。建久4年源頼朝が浅間山で巻狩りをした際に,家臣の重田四郎が傷を負い,この温泉につかっていやしたという伝説がある。今でも,重田屋敷とか幕岩という地名が残されている。江戸期には真田氏領で,「おたすけ湯」として困窮者や難病の人たちに開放されたという。その頃は露天風呂で,湯治湯になったのは元禄期以後のことである。元禄14年岩下村の応永寺の末寺であった少林寺(廃寺)の了牛和尚がこの地に来て新しく寺を開き,同時に,露天風呂を覆う小屋を建てて,地元民に開放したことに始まる。その寺は明治40年頃廃寺となったが,薬師堂だけは今でも旅館の裏に残っている。万治3年中尾の竹渕藤左衛門が地元松尾村の住民の協力を得て,土地を寄進した。泉源が川の中にあるために,時々流されては河原と化し,そのつど松尾村から人足が出て復旧したので地元住民には無料で入浴できるならわしがあった。天明8年には湯屋が掛けられていた。安政3年達磨石を作り,薬師信仰と結びつけて宣伝し,浄瑠璃の竹本政太夫が万延元年当地に滞在したのを機に,永住するようにすすめ,政太夫は三島唐堀に居を定め,弟子を集めて浄瑠璃を広めたという。その後明治43年と大正9年の大洪水により,泉源が埋没したが,小林儀一の努力で復興した。彼は住民の各組代表とともに川中温泉改良組合を設立し,大正11年に浴槽を新築改良,上流に堤防を築いた。しかし,昭和5年に再び出水して流失,その後発掘して湯小屋を建てたが,昭和10年,また山津波で河原と化した。その後も小林は,湯屋を川の北側(左岸)の安全な地点に移して新築し,昭和20年より営業を開始,同27年には区民と貸借契約を結んで経営し今日に至っている。現在,川中温泉の所有者は松谷に百十数名いる。浴客の数は明治44年175人,大正元年231人,同10年209人と大正期には年間200~300人程度であったが,国道145号やJR吾妻線の開通により大幅に増加し,昭和39年には7,200人を数えたが,その後は漸減傾向にある。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7045147 |





