木崎
【きざき】

旧国名:上野
大間々扇状地の南方に広がる木崎台地東部に位置する。南西中江田境に八縄川,北側低湿地境に大川が台地を囲むように流れる。集落全体が軽鬆土の台地に立地するため,古くから水利は不便であった。地名の由来については,鎮守貴先神社の貴先にあやかり,同文字では恐れ多いとして木崎としたとする説,往古后(きさき)と呼ばれる高貴な人が故あって当地に住し,のち貴先,木崎となったとする説などがある(木崎町郷土誌)。地内には原始・古代の遺物を多く包蔵し,大通寺後,木崎中学校校庭の花園遺跡から,古墳時代の集落跡が検出され,多数の土器が出土した。「上毛古墳綜覧」に木崎町7号墳(神明塚),同8号墳(二ツ塚)が記されているが,いずれも削平されている。なお、字神明出土の銀象嵌把頭が現在保存されている。木崎を名字とした武将に木崎八郎定能がいる。新田氏支族・大館17騎の1人で,興国3年に伊予国世田山城の合戦で,大館氏明らとともに戦死,栴檀寺に位牌が残る。中世館跡として「堀之内」の伝承があり,昭和初期まで塁濠が見られ,現在も地名として残る。宝広山大通寺域も中世館跡と伝承する。同寺は鐘銘記によれば,天文2年横瀬泰繁が先室の菩提を弔うため,永平寺19世孫大拙和尚を迎え開山した(中島家文書)。新田義貞は鎌倉倒幕に際し,同所にて小休止の折り冠を掛けたという「冠着の松」の伝承があり,同寺西を南北に通る道を鎌倉道と呼んでいる。文政8年の木崎村往古人居之古記(福島家文書)によれば,「尊氏将軍御治世文和・延文之頃は,大明神前通り下田之頭辺住居候由,其後義政将軍之頃応仁・文明時分本宿へ引移り住居いたし,猶其後関白秀次公御治世文禄元年壬辰当時宿並え引移り,同三年八月御検地」とあり,村落の移動を記している。また鎮守大明神之事として,「文和三年御宮造候事」とあり,貴先大明神の存在を記している。
【木崎郷(中世)】 平安末期~室町期に見える郷名。
【木崎村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【木崎町(近代)】 明治22年~昭和31年の新田郡の自治体名。
【木崎(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7045190 |





