100辞書・辞典一括検索

JLogos

42

上野国分寺跡
【こうずけこくぶんじあと】


奈良・平安期の寺院跡。群馬郡群馬町大字東国分・引間,前橋市元総社町にまたがって所在。榛名(はるな)山東南麓に広がる扇状地末端の,染谷川と牛池川に挟まれた台地上に位置する。標高は127.5~129m。北側は町道を隔てて東国分の集落に隣接するが,南・東・西側は畑地であり,良好な環境を保つ。東側約500mに尼寺跡,南東約1kmに国府推定地があり,南側約2kmには東山駅路と推定される古道の遺構がある。また北東約1kmには7世紀後半に建立された放光寺に比定される山王廃寺跡がある。寺域の北・東・西辺は築垣の跡が道路となっており,南辺は東西に莚びる段差となって残っている。東西約218m(2町)・南北約222~233mを測るが,南辺は西半部が北側へ「く」形に屈曲し,西辺も谷地形の制約により南側4分の1が東側に屈曲する形状を示す。寺域のほぼ中央に金堂の基壇と礎石が,その南西75mに塔の基壇と礎石とが残り,その周辺には多量の古瓦が散布している。大正15年10月20日国史跡に指定。「続日本紀」天平感宝元年5月,閏5月に,碓氷(うすい)郡の人石上部君諸弟と勢多郡少領上毛野朝臣足人が当国国分寺に知識物を貢納したことにより叙位された記事があることから,この頃に金堂・塔などの主要伽藍が完成したものとみられる。全国の国分寺の中でも最も早い時期にいちおうの建立をみたものの1つ。九条家本延喜式紙背文書「上野国交替実録帳」(長元3年に作成された不与解由状の草案)金光明寺項によると,寛仁4年には築垣壱廻四面・南大門・東大門・西大門・萱葺僧房・大衆院などは無実(滅失)となっており,板倉なども倒壊状態となっていたが,本尊の釈迦丈六像,脇士の普賢菩薩・文殊師利菩薩,四天王などは若干の傷みは生じているものの健全な姿を保っていたことが記録されている。また長保3年格により,国司が丈六十一面観音像を新造して金堂に安置したことも記されている。衰退期の国分寺の有様を詳述する史料として貴重であり,このような状況の一端は発掘調査によっても確認されている。金堂周辺を中心に多数の墓壙が造られていたことがうかがえ,それに伴うとみられる五輪塔および宝篋印塔の部分が多数出土しているが,この中に「至徳二年」の銘文をもつもの,「応永」の年号を刻むものがあることから,14世紀中頃には伽藍主要部も全壊状況となっていたとみられる。また柱穴・土壙・溝が多数造られており,輪宝を墨書する土器,鰐口などが出土していることから,国分寺廃絶後に仏教に関係する施設の置かれた可能性がある。昭和55年から群馬県教育委員会によって保存整備事業が始められ,それに伴う発掘調査が実施された。これによって金堂(7間×4間,80尺×45尺,基壇の出11尺)・塔(36尺×36尺・基壇の出14尺)の規模の確認,南大門・南辺築垣などの検出が行われたが,寺域北半部は中世に流水のために表土層が失われており,僧房・雑舎などの確認はできなかった。この発掘調査によって奈良三彩の薬壺・埦などの部分,塑像の破片,銅製飾金具,「造仏」の墨書をもつ土器などとともに,多数の押印あるいはヘラ書きのある瓦が出土をみた。これらによって国分寺の創建期には勢多・碓氷郡をはじめ佐位・山田郡とその管下の郷,修造期には主として多胡郡内の物部氏らの氏族が瓦の生産と供給にかかわったことが明らかとなった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7045354