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つつじが岡公園
【つつじがおかこうえん】


館林市東部の羽附町にある県立公園。花山公園ともいわれる。上毛カルタには「花山公園つつじの名所」とうたわれている。古くはつつじケ崎といわれ,戦国期の古文書にもこの名称が見られる。城沼南岸一帯の丘陵地を占め,面積4万3,000m(^2)に20余種1万株余のツツジが植えられており,昭和9年に国名勝に指定された。樹齢300年に及び,高さ6m,枝張りの周りが20mもの大樹が見られる。樹種はヤマツツジ・リュウキュウ・キリシマ・オオムラサキなどが多い。地形は丘陵性の傾斜地で排水がよく,砂質壌土で主に粘土と細砂からなる。鉄分や火山灰を含む軽鬆土のうえ,沼の南岸は暖地性のツツジに適していることから,古くよりつつじ山を形成していた。口碑によれば,初代館林城主榊原康政の側室お辻が,正室からの虐待に耐えかねて,慶長11年春に城沼に身を投じて死んだ。これを憐んだ里人がツツジを植えて供養したのが始まりという説と,3代忠次が寛永年間に新田義貞遺愛のツツジを新田荘から移植したとか,寛文年中に徳川綱吉が日光山から数株移植して808株にしたとか諸説があり,その起源は明らかでない。しかし歴代藩主の保護を受けて,幕末には「館林のつつじ」として近隣に知られるようになった。嘉永2年春当時の藩主秋元志朝は,小桑原の名主に命じて密蔵寺にあった紫1株,白10株を献木させて,赤一色のつつじ山に色どりをそえた。また,花の季節には役人を派遣して厳重に酔狂狼藉を予防し「一枝折らば,一指を失う」といううわさが流れたほどであった。明治維新で民間に払い下げられ,一時荒廃した。この頃の面積は5,247m(^2)であった。この時,県令楫取素彦がその状態を憂えて,郡長・郡吏に保存を計画させた。明治16年村山郡長は郡吏や戸長と協議し,広く有士を募り資金を集めて郡内17か村共有として,草を刈り,雑木を切り,築山に小亭を造り,門表を建て,城沼に船着場を設けるなど,30日間・870人余を費やして,明治17年開園式を挙行した。明治18年には1万3,000m(^2)余に拡張し,同19年5月には時の皇后と皇太后が行啓されていっそう有名になり,その記念碑も建てられた。明治40年には郡費で東隣地2,128m(^2)を拡張し,沢野村などから百数十株を移植し,同41年には公園全体を免租地とした。明治43年には野州より大余の大木数十株,大正4年には東京万花園より苗木1,200本を購入し増殖。大正15年県立つつじが岡公園となる。昭和5年花山保勝会は西方に4,663m(^2)拡張。昭和35年には城沼を隔てた尾曳城跡の一部で旧藩主秋元氏の別邸一帯約1万m(^2)余を買収して第二公園とし,湖畔遊歩道と太鼓橋(尾曳橋)で結んだ。昭和40年以後も拡張され,同48年度からは10か年計画でつつじが岡公園城沼総合運動場の整備が行われた。昭和58年の「水と緑の都市宣言」により,この公園を中心とした地域はそのシンボルゾーンとして整備されている。城沼に流入する鶴生田川の緑道,歴史の森,田山花袋記念館,城沼回遊道路,公園広場などの整備,城沼の浄化などが進められている。毎年4月中旬から約1か月間のツツジの開花期には県内外から10万人を超える花見客が訪れる。特に,明治40年の東武鉄道の開通後と最近の自動車交通の発達により急激に増加した。園内には大谷休泊紀功碑が建てられている(明治15年建立)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7046201