角川日本地名大辞典 関東地方 群馬県 30 本町【ほんまち】 旧国名:上野 (近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は城下町伊勢崎の町人町。「伊勢崎風土記」に町名が見える(県史料集2)。伊勢崎城の南を東西に走る道沿いの町で,西に西町,東に片町,南に裏町,北に新町・間之町などがある。寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)による名請人筆数34,ほかに本町下として12筆も見える。また「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上(同前)によれば,間数は城表門前から新町南端と接する地点の高札場まで164間,高札場から下の木戸まで46間の計210間,家数86うち店借22。当町は古くからの町で,本陣が置かれ,1と6の日の伊勢崎の六斎市もはじめ当町だけで開かれていたが,寛永20年11日と26日分を新町へ,万治2年朔日と16日分を西町へ分け,当町では6日と21日にのみ開かれることとなった(伊勢崎風土記/県史料集2)。町域のうち,西町から新町角までが本町,そこから片町寄りが下宿と俗称されたが,安永5年下宿に火災が起き,それを契機に高札場から分水して用水堀が通された(伊勢崎町新古日記/伊勢崎市立図書館蔵文書)。また享保6年当町借家人四郎兵衛がほかの屋敷を借りて湯屋を開業し,のち裏町住民杢太夫がそれを買取って営業を続けたが,これが伊勢崎の湯屋の始まりという(同前)。明治9年鉦打郭を当町域の南部にあたる字本町南へ編入。同16年字本町南は南町となる。同年間之町の一部を編入し,町内を1~3丁目に分けた。同18年の戸数は,1丁目65・2丁目84・3丁目50。同43年4丁目を新設,昭和15年錦町を5丁目,下植木の一部を6・7丁目とした。また明治33年町内に群馬商業銀行が創立。同36年3丁目のうち川東を分割して町名を新設したい旨の願書が出されたが,区域内に不承諾があり,願書返付扱いとなっている。4丁目には,大正15年伊勢崎町役場庁舎が完成し,昭和10年には本町郵便局が開局,昭和34年に株式会社いせやが開業した。明治44年の戸数・人口は1丁目218・1,133,2丁目102・530,3丁目45・234,4丁目42・218。世帯数・人口は,大正9年には1丁目77・341,2丁目98・628,3丁目60・359,4丁目93・398,昭和5年には1丁目52・333,2丁目87・638,3丁目58・357,4丁目157・750,同15年には1丁目48・308,2丁目77・563,3丁目55・302,4丁目161・855,同25年には1丁目63・315,2丁目105・538,3丁目87・426,4丁目266・1,250,5丁目429・2,142,同35年には1丁目54・285,2丁目89・536,3丁目79・415,4丁目248・1,151,5丁目439・2,015。昭和45年476・1,981(男923・女1,058),同55年328・1,150(男539・女611)。昭和20年戦災による焼失戸数は1丁目6・2丁目49・3丁目36・4丁目26・5丁目92。町名は,明治22年から伊勢崎町,昭和15年からは伊勢崎市の通称町名として存続。同42年正式町名となる。同年丁目の通称を廃し,栄町・新町・南町・日吉町・南町・宮元町・西町の各一部を編入,同時に一部が大手町・中央町・平和町となる。なお,6丁目は東本町,7丁目は下植木町となる。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7046983