角川日本地名大辞典 関東地方 埼玉県 23 忍藩【おしはん】 旧国名:武蔵 (近世)江戸期の藩名。譜代・中藩。居城は埼玉郡忍(行田(ぎようだ)市)。小田原北条氏治下では成田氏長の支配下であったが,天正18年6月石田三成の水攻めにより落城。徳川氏の関東入国ののち,松平(深溝)家忠が1万石で入城して成立。同19年,埼玉郡新郷に新市を立てた(家忠日記)。文禄元年,松平忠吉が10万石で入封,この時代には家老の小笠原吉次により利根(とね)川本流の会ノ川の付替え工事や新田開発が盛んに行われた。慶長5年~寛永10年までは城番制,この間,慶長13年~14年に関東郡代伊奈忠次の領内総検地が施行された。同10年,松平(大河内)信綱が3万石で入封。ついで同16年,阿部忠秋が5万石で入封,のち10万石に加増。寛文4年の藩領および村数は埼玉郡35・大里(おおさと)郡31・秩父(ちちぶ)郡27・足立(あだち)郡13・幡羅(はたら)郡2・男衾(おぶすま)郡9・相模(さがみ)国三浦(みうら)郡(神奈川県)8・上野(こうずけ)国新田(につた)郡(群馬県)7の計132か村で石高8万石(寛文印知集)。元禄初年頃は本知9万石,内高11万石余,年貢は5割余,抨し5割5分,家中物成は4割,「勝手不如意故に京,大坂より借金し家中へ借す事が度々であり,又家中風俗は良し」という(土芥寇讎記)。享保14~17年に秩父領横瀬町・芦ケ久保村で新田開発がなされ,周辺から2,000余の人足を徴発し,畑約26町・山林約145町を開く。忍城付6万石分の地方支配機構は村方を4組に分け,おのおのに割役名主を置いて統轄させた。この頃の商品生産には忍周辺の木綿・藍・紅花・青縞織のほか,下級武士や農民の間に足袋の生産が行われた。専売品としては秩父領の絹織物があるが,寛延2年,藩領の在郷町秩父大宮町(秩父市)に絹丈尺改会所の設置を計画し,寛政期にも蔵物仕法を計画するが失敗している。農民一揆は年貢増徴・年貢上納期限変更・米価高騰をめぐって寛延2年・宝暦2年・同12年・天明3年に起きている。文政6年に松平(奥平)忠堯が10万石で入封し,廃藩置県に至る,松平氏は藩財政に逼迫しており財政再建のため,入封早々に年貢増徴のほか,村別に御頼金と称する御用金や,富裕な者に人撰御頼金を課した。さらに秩父領の絹仲間12人を公認し冥加銀の徴収や文久2年には糸会所を設置し,生糸の統制を実施している。その一方で藩校の進修館を設置し,藩士の教育に当たった。秩父領では文久元年には米価高騰により,慶応2年にも武州世直し一揆として有名な農民一揆が起き,藩ではこれを契機に洋式兵制に改めている。明治初年の草高14万1,000石余,人口11万3,000人余・士卒1,638戸(藩制一覧)。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7048316