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飽富神社
【あきとみじんじゃ】


袖ケ浦市飯富にある神社。祭神は倉稲魂命・大己貴命・少彦名命。古代以降,飫富・飯富と書かれ,中世には飯富大明神などとも称された。現在では「おふのみや」と呼ばれる。神八井耳命が創祀したと伝える。当地は「和名抄」の望陀郡飯(飫か)富郷の地であり,大和国十市郡飫富郷との関係が推定される。大和の飫富郷は神八井耳命を祖神とする飫富氏の本貫地であり,神八井耳命を祖神とする飫富氏系の長狭国造がその祖神を祀ったものかもしれない。元慶元年5月17日に従五位上勲五等から正五位下へ,同8年7月15日に正五位上へ昇叙している(三代実録)。「延喜式」神名帳望陀郡条に「飫富神社」と見える。社伝では,平将門の乱に際して朱雀天皇は当社に勅使を遣わし,兵乱鎮定の祈願とともに太刀1振を献納したという。「石清水皇年代記」によると,天承2年11月1日には石清水八幡宮俗別当兼孝の支配下に入り(石清水文書4/大日古),兼孝の子兼安も当社の社司に補せられたと伝える(上総国神社志料/房総叢書)。さらに仁安2年4月25日付法眼玄修書状では,以前鳥羽院領であったが,のちに「春日御塔」に寄進された。同2年4月の石清水八幡宮への行幸に際して八幡俗別当兼保に付せられる予定であったため,「御塔□供料,永令断絶」神慮計り難いことになるとして中止を求めている(平遺補4838)。貞治元年12月18日には前安芸守平貞清が「飯富庄内本納・加納両郷」(町内神納付近)を寄進した(前田家所蔵文書/大日料6-24)。また同3年10月28日には足利基氏により当社別当職に地蔵院前大僧正覚雄が補され(前田家所蔵文書/大日料6-26),応安元年12月26日になって覚雄から太政阿闍梨某に譲られている(細川頼之書状/県史料県外)。別当寺は一位山神宮寺であった。明治6年5月に県社に列格。当時は飯富・奈良輪・神納など周辺8か村の鎮守であった。1月7日に的射の神事,同月14日に筒粥の神事がある。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7052677