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安房神社
【あわじんじゃ】


館山市大神宮にある神社。安房国一宮。大神宮・大井明神・安東明神とも呼ばれる。祭神は天太玉命。天比理刀咩命・天忍日命・天富命を配祀する。神紋は菊花。当社は忌部(斎部)氏をる神社で,「古語拾遺」(群書25)によれば,斎部氏祖の天富命が阿波国(徳島県)の斎部氏を率いてこの地を開き,祖神である天太玉命を祀ったのが安房社であるとし,「今之安房社,故其神戸有斎部」とも記す。下立松原神社(白浜町)の神官家高山氏所有「安房忌部本系帳」によれば,天止美(富)命が当社を創建した際,天太玉命が天上より持ち来たった諸神宝を納め,以後天富命の娘飯長姫命に大神を祀らしめたという(安房国神社志料)。「安房忌部家系」には,飯長姫と由布都主命(天日鷲命子孫)とが,結婚して安房忌部氏の祖となったとする(安房国神社志料)。「続日本後紀」承和3年7月17日条に「安房国无位安房大神奉授従五位下」とある。同9年10月2日条では安房大神が正五位下に列するとともに,その姫神である「无位第一后神天比理刀咩神」も従五位下に列している。同14年7月9日条には「安房国大神,并従神祭,正税穀一百斛」を加うとある(続日本後紀)。その後,仁寿2年8月22日には,両神とも従三位となり(文徳実録),貞観元年正月27日には「安房国従三位勲八等安房神,天比々理刀咩命神」が,正三位に昇叙している(三代実録)。「延喜式」神名帳安房郡条に「安房坐神社〈名神大,月次新嘗〉」「后神天比理乃咩命神社〈大,元名洲神〉」と見える。「新抄格勅符抄」所収の大同元年牒に「安房神 九十四戸 安房国加十戸」と見え,当社が初めて叙位された承和3年より30年も以前に,すでに100戸余りの封戸を有していたことがわかる。「令集解」選叙令には,養老7年11月16日の太政官処分によって安房国安房郡ほか8神郡の郡司の,三等以上親の連任をゆるすと見え,安房郡はこの頃以前には当社の神郡となっており,のちの「延喜式」式部条にも安房国安房郡を神郡としている。「和名抄」安房郡内に見える神戸郷・神余郷は,おそらく神郡の伝統を引き継ぐものであろう。「高橋氏文」には,景行天皇が「上総国安房浮島宮」に来た時,磐鹿六獦命が八尺白蛤と堅魚を献じたので,天皇はこれを賞して六獦命に大伴部の号を賜い,また上総国安房大神を御食都神としたとある。さらに注記として「安房大神為御食津神者,今大膳職祭神也」とあって,宮中の大膳職の神となっていた。中世の沿革はほとんど不明だが,安房郡は安西と安東とに分かれ,当社は安東に属したので安東明神とも呼ばれるようになったのであろう。近世に作成された「安房忌部家系」によれば(安房国神社志料),治承4年源頼朝は源家開運の祈祷を命じるとともに本領を安堵,のちに神田を寄進するなど,当社を崇敬したという。文治2年には安房判官代高重の訴えを受けて,大破した社殿の復旧を命ずるとともに,以後,「在庁等之沙汰」として当社を造営するよう厳命。建久6年,在庁等による上総国千田荘の神領押領も,幕府の命によって制止されたとある。そののち公家・武家の崇敬を受けるが,室町期には衰退に向かい,明応8年6月の大地震のために社殿は烏有に帰した。天文年間に,里見氏によって社殿等も復興され,社領も若干が返付されたという(安房忌部家系)。「安房国神社志料」に天文4年12月13日付里見義堯寄進状と,元和2年9月25日付の徳川氏社領寄進状がある。寛永13年11月9日付徳川家光朱印状には,「安房国安房郡正一位大神宮領」として,大神宮村のうち19石余,滝口村のうち11石,合わせて30石余が社領として寄進されている。明治4年5月に官幣大社。所蔵の狛犬・大燧筐・木椀・双鳥花草文八陵鏡文円鏡は市文化財。境内にある弥生時代の洞窟遺跡は県史跡。11月27日の祭は御狩神事と呼ばれるが,これは身代わりの意で,祭を迎えて清浄な状態になることを意味するものとして,民俗学では注目されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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