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飯香岡八幡宮
【いいがおかはちまんぐう】


市原市八幡にある神社。祭神は誉田別尊・息長帯姫尊・玉依姫尊。他に7神を合祀。市原八幡宮・八幡大神宮・国府惣社八幡宮などと呼ばれた。当社は養老川下流域右岸の平野(東京湾海浜部)に位置する。創祀は未詳だが,当社の前身は産土神の六所御影神社で(現当社奥宮),社名の由来は日本武尊に,六所御影神社の社人が夕飯を捧げたところ,飯のよい香りがしたことにちなむという。保元3年12月3日付官宣旨に宮寺領として「上総国,市原別宮」とあり(石清水文書1/大日古),国府八幡宮として石清水八幡宮との関係を保っていた。社伝では,のちに惣社を兼ねて国府惣社八幡宮と称したという。武家の尊崇が篤く,源頼朝は,治承4年に150町の神領を,文治5年には甲冑1領・太刀1振をそれぞれ寄進したという。また正嘉2年3月には市東荘領主青砥藤綱が太刀を寄進し,足利義満も神輿4基(現存)を寄進したと伝える。社殿の造営は,源頼朝が治承4年に行い(市原郡市東庄八幡郷御宮略縁起,上総国神社志料/房総叢書),また長禄3年と文明年間にも行われたといわれる。応安8年2月10日付市原八幡国役荘役注進状によれば(三宝院文書/県史料県外),当社殿造営は上総国一国規模でなされ,数多くの建築物がみられる。現本殿は室町末期の入母屋造の建築で国重文,拝殿は元禄4年のもの(県文化財)。徳川家康は,天正19年11月に150石の朱印地を寄進している(寛文朱印留)。また翌20年には武運長久祈願のため大太刀を奉納した(現存,市文化財)。文禄年間以降,領主永井右近大夫・堀飛騨守・大久保伊豆守などが米を寄進している(上総国町村誌)。神宮寺は真言宗の若宮寺で,塔頭13院とされる(房総志料/房総叢書)。若宮寺は霊応寺とも称し,正長2年3月に孫七というものが鰐口を奉納している(県史料金石1)。当社別当職として観応元年10月26日に京都醍醐寺の子院地蔵院の覚雄が補されているのを始め(前田家所蔵文書/大日料6-13),宮寺別当職に聖快・持円の名が見えている(応永24年10月21日付前大僧正聖快所蔵所領譲状案写,正嫡相承秘書/神奈川県史資料編3)。明治6年3月に郷社,同26年に県社。当時は八幡・五所・市原村の鎮守であり(上総国町村誌),現在でも海上守護・子育ての神として信仰を集めている。祭礼はかつて五月会が行われていたが(応安5年5月日付市原八幡五月会馬野郡四村配分帳,覚園寺文書/大日料6-36),現在では旧暦8月15日に柳盾神事が行われている。柳盾とは柳で作った盾のことで,前日これを担いで阿須波神社(市原市五井)に立ち寄り,五所地区へ送られる。これを当日当社に奉奠し神輿とともに市内渡御をする神事である(県民俗資料)。神木として夫婦銀杏があり,樹齢800年位(県天然記念物)。ほかに足利義明寄進の大般若経など文化財が多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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