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意富比神社
【おおひじんじゃ】


船橋市宮本町にある神社。祭神は天照皇大神。かつては船橋天照大神宮・神明・夕日の宮(下総式社考)・関東一之宮(東葛飾郡誌)とも称し,現在では船橋大神宮が通称。当社はかつて「大日山」と称されていた台地にあり,房総の海を一望できたという。明治18年の「意富比神社明細帳」によれば,景行天皇41年4月に日本武尊が東征の際に湊郷(現船橋市)に上陸したが,里人が旱魃に苦しんでいたために,尊は伊勢の皇大神宮を遙拝した。するとたちまち雨が降り出し,やがて雨は晴れて海上から光り輝く船が漂着したので,尊はその船中にあった神鏡を天照皇大神の御霊代として奉斎したのが当社の創祀という。ところが以後も雨が降り続き,湊郷の大半が洪水となったために,社地を北方の高陵の地へ遷座したという。当社は意富比神として,貞観5年5月26日に正五位下,同13年4月3日に正五位上,同16年3月14日に従四位下に叙され(三代実録),「延喜式」神名帳葛餝郡条にも「意富比神社」と見えるなど,古代においては「意富比神社」であった。以後社伝によれば,源義朝が鳥羽上皇の院宣を奉じて,仁平元年6月11日に船橋六郷(高根・米ケ崎・七熊・下飯山間・金曽木・夏見村)を当社に寄進,その後源頼朝によって収公されたが,千葉満胤が承久元年4月に旧に復したという。ただしそれは応永6年4月のこととも伝える(成田名所図会)。戦国期になると当社は「船橋大神宮」などと称されるようになる。これは「神鳳鈔」に見えるように,夏見村には夏見御厨(船橋御厨とも)が存在し(群書1),御厨には神明社が勧請されるのが例であることから,夏見御厨に伊勢神宮の遙祀として勧請された神明社を起源とする船橋大神宮が,戦国期になって夏見御厨の衰退とともに,意富比神社に合祀されたものと考えられる。そして合祀された神明社の方が有名になり,当社は「船橋大神宮」と呼ばれるようになったものであろう。天正19年11月に徳川家康は当社に50石の朱印地を寄進し(寛文朱印留),慶長13年7月18日にも伊奈備前守忠次を奉行として社殿を造営している(棟札/東葛飾郡誌)。社殿の造営はこのほか天喜3年から延享4年までに30数回を数える(東葛飾郡誌)。当社神主家は富氏で,このほか石上・千葉・宮野・小中井の4氏が知られる(同前)。また神宮寺は新義真言宗豊山派の覚王寺とも(下総式社考/房総叢書),同寺末の夏応山薬王寺(船橋市夏見町)とも伝える(成田名所図会)。当社社殿は明治維新の戊辰戦争の際に焼失し,明治4年に再建。翌年県社に列格。祭礼は古来から数多く,特に例祭日(10月20日)には12座御神楽があり,その前日には天正19年徳川家康参詣に起源を持つ相撲神事が行われる。境内にある灯明台は県文化財。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7053464