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香取神宮
【かとりじんぐう】


佐原市香取にある神社。下総国一宮。祭神は経津主神・比売神・武甕槌命・天児屋根命。利根川右岸の台地上に鎮座する。茨城県の鹿島神宮と並び称される武神。大和朝廷の東国支配に重要な役割を果たした神社。「日本書紀」天孫降臨条の一書には,経津主神は斎主とも称し「此神今在于東国檝取之地也」とある。檝取(かじとり)の地名は船運の盛んだったことに由来し,当社も本来は航海の神だったのであろう。この地は古代の霞ケ浦に面した自然の要衝に位置することから,霞ケ浦を挾んで対峙する鹿島神宮とともに,大和朝廷にとっては軍事基地として大きな意味を有した。「常陸国風土記」行方郡条に「香取神子之社」が2か所見え,当社が早くから周辺地域に勢力を振るっていたことがわかる。「続日本紀」宝亀8年7月16日条に,内大臣藤原良継の病気に際して,氏神である鹿島社を正三位に,同じく香取社を正四位上に叙すと見える。平城遷都にあたり,藤原氏は鹿島の神を大和に移して春日大社を創立し,同氏の氏神とした。延暦20年9月22日付太政官符に,「春日祭料」用の調布として「下総国香取神封二百端,常陸国鹿島神封三百端」が調達されているのが見える(新抄格勅符抄)。「小右記」治安3年9月6日条に,鹿島使が鹿島神宮に着いた翌日「渡海参香取宮」とあって,当社には海を渡って奉幣に参るのが定例とされていた。この慣例は中世に至っても鹿島神宮の7月大祭に引き継がれていた。当社は承和3年5月9日に正二位,同6年10月29日には従一位となり(続日本後紀),さらに「三代実録」元慶6年12月9日条に「正一位勲一等香取神社」と見えているから,これ以前には極位に達していた。「延喜式」神名帳香取郡条に「香取神宮〈名神大 月次新嘗〉」とあり,下総国唯一の名神大社とされ,「廿年一度改造」のことも定められた。「三代実録」元慶6年の記事は当社造営に関するもので,「廿年一作例」に従って「香取神社雑舎」を造営する料足として下総国の神税稲を充てたとある。また「延喜式」には従八位官に准ずる宮司1人と禰宜1人,物忌2人,楽人6人,舞伎8人のいたことが見える。「新抄格勅符抄」所収の大同元年牒によれば「香取神 七十戸 下総国」とある。「延喜式」式部条の神郡の項に下総国香取郡を神郡とすると見え,同臨時祭条には当社の神官の季禄は封戸物を充てよとあり,また「香取神宮楽人」の装束は国司が配給せよとも記されている。平安期以降当社は藤原氏の保護を受けてその寄進社領も多く,「平記」長暦元年7月25日条には鹿島使発遣に当って,関白藤原頼通が「下総国御封十烟」を寄進するなど(続々群5),以後たびたび社領が寄せられた。神官は古くは香取連だったと伝えられているが,平安期以降は藤原氏が神官の任命権を有するにつれ,大中臣氏が当社宮司を歴任するようになった。「香取大宮司系図」によれば,もともとの神官家は経津主神を祖神とする氏族で,敏達天皇の時に豊佐登連が香取連を名乗り,文武天皇の時に香取社を奉祭するようになったという(続群7下)。同系図によれば,天児屋根尊を氏祖とする中臣氏は,延暦年間の清麿の代に大中臣姓を分流し,その4代後清暢の時に香取連五百島の養子となって当社大宮司となっている。大宮司のほかに,上級神官としては大禰宜がいる。「香取大禰宜系図」によると,そのはじめは清暢の子秋雄であった(続群7下)。平安末期までは両官とも大中臣氏が独占していたが,康治元年11月8日の摂政家政所下文案によって鹿島大宮司家の中臣助良の弟助重が大宮司に任命されたのを発端として(大宮司家所蔵文書/香取文書纂2),以後12世紀末まで大中臣・中臣両氏による大宮司職をめぐっての抗争が続いた。応保2年6月3日付大禰宜大中臣某譲状断簡によれば,平安末期頃の大禰宜大中臣氏の所領は「大禰宜職,金丸・犬丸,并葛原牧織幡村,所々神田等」であった(香取大禰宜家所蔵文書/平遺3223)。治承5年10月日には源頼朝が下総国下福田郷を寄進し,観応3年7月13日に足利尊氏が同戸頭郷を寄進するなど(香取神宮文書/県史料香取),武将の信仰が大きかった。鎌倉期から室町期にかけては大禰宜大中臣氏の勢力が大きく,至徳2年10月4日付大禰宜大中臣長房譲状によれば,大禰宜所領は金丸・犬丸名・司名・大神田,小野・織服・葛原村,下福田郷,戸頭郷,虫幡神田,小見郷,田部,常陸行方郡内,神主職,加符・大根両村,香取12か村散在神田畠,常陸・下総両国海夫,堀川の堀内の田畠などである(大禰宜家所蔵文書/県史料香取)。このほかに当社周辺の屋敷,諸神官任命権をも有していた。これらの社領のほか,常陸・下総両国の海夫と関の支配がある。海夫とは霞ケ浦に面する各地の津の漁民のことで,当社は彼らに神祭物となる魚介類を進上させていた。下総分としては飯沼荒野津以下24津余,常陸分としては阿波崎津以下45津余が知られる(大禰宜家所蔵文書/県史料香取)。また関は,応安5年11月9日付藤原氏氏長者宣によれば戸崎・大堺・行徳の関支配がやはり大禰宜長房の所領とされているのが見え(同前),他に長嶋関・武蔵国猿俣関が知られる。中世における当社の造営は,20年おきに国衙が中心となって行うものとされ,下総国内の諸荘・諸郷に造営役が課されていた。鎌倉期と推定される年未詳の造営記録断簡に,正殿造営の役は往古より国中大名が勤めることになっており,治承年間は豊島三郎清基が葛西郡の年貢を募って造営し,建久年間は千葉介常胤が担当,嘉禄年間は壱岐入道が葛西郡の年貢をもってし,宝治年間は千葉介時胤が神保・萱田・吉橋の国衙領を用いて造営料としたが,今回は葛西経蓮がつとめたとある(神宮文書/県史料香取)。同文書には正殿以外の建物の分担も記され,例えば渡殿は上野方郷,内院門は匝瑳北条,外院門は印西条などとあり,以下30余宇の建造物とその役を負った国内の荘・郷の名が見える。平安末期以降の当社造営年を示すと,保延3年,久寿2年,治承元年,建久4年(大風による社殿倒壊のための臨時造営),建久8年,承久元年(戦乱により嘉禄3年に延期),宝治3年,文永8年,正応5年,元徳2年,貞治年間頃,至徳2年頃,応永5年,永享2年,享禄2年頃,元亀3年となる。このほか「香取造営記」によれば,正和5年,応永31年,文明15年,明応元年にも造営があったとされる。鎌倉期にはほぼ20年おきに1度の造営が守られているが,南北朝期以降になるとそれが困難となっていて,史料もあまり残っていない。鎌倉末・南北朝期の混乱で社領も多くが押領されたが,大禰宜大中臣長房の時になって神領や神官の再編成が進められ,以後比較的安定した。室町・戦国期までには神官組織も整理され,神官団による祭祀の頭役制も完成された。天正19年11月日付徳川家康寄進状によれば,香取郡香取郷の1,000石を寄進し(源太祝家所蔵文書/県史料香取),以後近世を通じての朱印社領となった(寛文朱印留)。幕府は慶長12年に社殿の大造営を行ったが,現在の社殿は元禄13年の造営にかかるもので,本殿は国重文。当社の神宮寺は3寺あったとされ,1つは神宮寺別当で金剛宝寺と称し宮中にあった。もう1つは社僧と称する惣持院で真言宗。最後は新寺にあった新福寺である。この3寺とも明治期の神仏分離で廃寺となった(地名辞書)。新福寺の山号は経津神徳山,曹洞宗で本尊は十一面観音であった。近世には香取社領1,000石のうち34石を有した。香取神宮は,明治4年に官幣大社に列した。宝物として海獣葡萄鏡(国宝),古瀬戸黄釉狛犬・双竜鏡(以上国重文)などがある。神事祭礼は数多いが,毎年4月の御田植祭,11・12月の大饗祭があり,12年に1度行われる式年神幸祭(軍神祭)も有名。




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「角川日本地名大辞典」
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