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神崎神社
【こうざきじんじゃ】


神崎(こうざき)町本宿にある神社。祭神は天鳥船命・大己貴命・少彦名命。社伝によれば,当社の西方常陸と下総との境の大浦沼二つ塚から白鳳2年に移座したといわれる。現社地も利根川右岸に張り出す台地上にある。古代以来水上交通の要地であったから,当社は航海に関わる神だったという。社地に隣接して小松の地名がある。当社は明治期まで子(小)松神社と称していたといわれ,「三代実録」元慶3年4月5日条で従五位下に列せられた下総国小松神社は当社のことといわれる。平治元年3月8日の「神崎宮絵図写」によれば,西方の大浦(真世宇良あるいは真如浦とも記す)に当社の祭神が住み,そこから白鳳2年2月1日に現在の社地に影向したと信ぜられていた。また承平2年には勅旨をもって下総国司が社殿を造営し,造営料田は26町であったとある。同絵図写によれば長暦元年11月3日,寛徳2年8月12日に造営があったとされ,さらに21年1度の式年造営が慣例化していたともある。当時すでに神仏習合が進んでおり,諸祭神それぞれの本地の仏名が付されている(県史料諸家)。当社の別当寺であった神宮寺(真言宗智山派)が当社南方並木(神崎町)にあり,貞治2年等の奥書を有する大般若経600巻(現存約540巻)が所蔵されている(県文化財)。神崎神社と神崎荘とは中世を通じて密接な関係にあり,明徳元年12月20日鎌倉府奉行人連署奉書で当社は,「神崎庄惣社」と呼ばれてもいる(神崎神社文書/県史料諸家)。社伝によれば戦国期頃までの社領は700町という。天正19年11月日に徳川家康は「神崎郷之内弐拾石」を神崎大明神に寄進し,以後代々の朱印領とされた(神崎神社文書/県史料諸家)。江戸期における当社の景観は「利根川図志」に見える。明治元年に神崎神社と改め,同6年に郷社,大正10年に県社となった。神崎神社文書は県文化財。境内の大クスノキは国天然記念物で,境内林は県天然記念物。氏子区域は48か村に及んだ。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7054416